スキーのあけぼの |
スキー発祥から新潟県スキー連盟の創立まで |
明 治 4 3 年 | |
12・25 | 高田に司令部をもつ第13師団に、陸軍省から一通の文書が舞い込んだ。(12月17日との記録もあり) |
「スエーデン軍隊用スキー2個及ビ之ニ関スル書籍3冊、同国駐剳杉村公使ヨリ当省大臣へ寄贈有之候処、今般陸第四九八○号ニヨリ貴師団第五十八連隊付ノ義御達成候。オースタリー武官レルヒ少佐ハ、斯道ニ熟達ノ趣右スキー及ビ書籍送附候条、適宜ノ方法ニヨリ実験ノ上、其成績及ビ御意見報告相成度依命及通牒候也」 この時から日本スキーの胎動が始まった。 第13師団長長岡外史中将は、既にスキーについて理解があった。ただちにレルヒ少佐を隊付けとして迎える歩兵第58連隊の堀内文治郎連隊長を委員長とし、スキーの研究を命じた。堀内大佐は、鶴見宣信大尉を主任としてスキー専修員を選出した。「明年1月早々にレルヒというオースタリーの少佐が来て、スキー術を教えることになっている。それで日本には昔からスキーがあって、このようにみんなうまいということを示し、反対にレルヒに教えてやるくらいにまで研究せよ」との命令であった。 |
明 治 4 4 年 | |
1・5 | レルヒ高田に到着 |
1・12 | レルヒ高田連隊青年将校のスキー専修員14人にスキー術を指導(日本のスキー発祥)3・12までの間に34回講習 |
1・25〜 | 高田新聞はスキー講習の報道とともに「穿橇使用法」を6回にわたって連載 |
1・26〜 | 高田日報は「雪滑斯くして研究すべし」を5回連載 |
日本で初めてのスキーの紹介とあって、漢字表記は、高田新聞が「穿橇」、高田日報が「雪滑」と苦心の結果であった。 | |
1・31 | 金谷登山が行われ、好天とあって大勢の見物人が集まった |
2・15 | この日より5日間、県知事の命により、県内の中学校体育教師を集めて講習会開催 |
この講習会の受講者は次の通りである。外川幾太郎(長岡中)熊谷又吉(新発田中)池亀経蔵(佐渡中)渡辺清作(巻中)西川梅吉(糸魚川中)斎藤金一(加茂農)光沢馨香(柏崎中)斎藤定吉(新潟商)菅善次郎(新潟中)渡辺賢恵(三条中)原寅治(小千谷中)土屋勘太郎(新潟中)五井寿快(新潟県属)佐藤正之(長岡女師)小林郁四郎(新潟師)堀川兵記(柏崎中)武藤作太郎(能生水産)井唯次郎(村上中)佐野サイ(新発田女)大内ふみし(柏崎女)山極九十郎(高田師)山峰豊次郎(高田師)荒田静吉(高田中)清水藤作(高田中)小日向馬作(高田中)黒木甚―郎(高田女)藤井シズ(高田女) | |
2・19 | 高田スキー倶楽部設立 金谷山薬師堂境内にて発会式(日本初のスキークラブ) |
高田スキー倶楽部規約 | |
第―条 | 本クラブはスキーの乗用をもって元気を鼓舞し、強健なる体力を養成するを目的とす。 |
第二条 | 本クラブを高田雪艇倶楽部と称し事務所を高田日報社内に置く。 |
第三条 | 本クラブの目的を達成するため、毎日曜日、練習をなし、毎年一回競技会を開くものとす。 |
第四条 | 本クラブには次の役員を置く。 |
一、会 長 一名 | |
二、評議員 若干名 | |
三、幹 事 若干名 | |
第五条 | 本クラブは顧問若干名および名誉賛助員若干名を置く。 |
第六条 | 本クラブの教官を第十三師団スキー研究委員に乞うこと。 |
明 治 4 5 年 | |
1・5〜 | 民間人を含めてのスキー講習会を第13師団主催で2会場で開く。高田会場58名、小千谷会場49名。軍隊及び甲種受講生3週間、乙種受講生(民間人)10日間。教官レルヒ中佐、小千谷会場主任教官鶴見宣信大尉。 |
1・21 | 記録に残る日本初の競技会 高田スキークラブ主催で50名が参加した。コースは南葉山八合目から射撃場までの高田旭山コースで全長4km、その後レルヒコースとよばれるようになった。決勝点付近は黒山の見物人で埋まったという。 |
レルヒコース滑降大会の記録 | ||
第1班(レルヒ直弟子) | ||
1位 | 木暮広三郎少尉 | 25分 |
2位 | 高橋 良 中尉 | 26分 |
3位 | 松元利彦 中尉 | 31分 |
第2班(専修将校の指導を受けた若手将校) | ||
1位 | 上条 中尉 | 26分30秒 |
2位 | 小平 中尉 | 28分30秒 |
第3班(民間人) | ||
1位 | 金井勝三郎 | 26分30秒 |
2位 | 佐藤 慶緑 | 30分 |
第4班(下士) | ||
1位 | 武井 伍長 | 27分 |
結局、木暮中尉が専修員の面目にかけて最高タイムを出したわけてあるが、翌年日本スキークラブの主催で行われた初めての全国競技大会での1位の記録は21分余で、1年間で4分近くタイムがちぢめられたことになる。 その後も16分、13分、12分49秒、と短縮され、大正4年の第13回大会では、近藤文太(高田中出)11分50秒となっている。 当時全国的な交流がほとんどなかった時代に、地元の軍人・逓信・営林・鉄道・学校はもちろん、年度によっては早大・学習院、長岡中学・秋田中学・小樽商業・樺太・中央大等の参加を見て、黎明期のスキー界に大きな貢献をした。 |
1・24 | レルヒ、旭川第7師団へ転任、高田を去る。 |
1・24〜26 | 本邦初のスキーによる山地踏破行軍2隊で実施。 |
1隊は高田〜斑尾山〜飯山、他の1隊は小千谷〜金倉山〜栃尾〜長岡 | |
2・11 | 高田スキークラブを改称、越信スキークラブとなる。尚、越が信よリ先であるとの意で、越信と呼称した。 |
発会式は金谷山の射撃場で行われ、明治天皇の御名代として山根侍従武官や乃木大将をはじめ長野、山形、青森、北海道などから来賓5百人が参加。式は午前10時に始まり、レルヒコースで競技会も行われ、乃木大将や競技会が関心を呼んで、会場は数千人の観客で埋まり、、高田新聞は号外を発行してその模様を詳報した。 | |
2・11 | 高田スキー館を新設、階下をデパート、階上をスキー博物館とした。 |
8・ | 越信スキークラブ、全国的組織となったため、日本スキークラブと改称。 |
長岡のスキー |
44年2月の体操教師講習会に参加した長岡中学校の外川幾太郎、長岡女子師範の佐藤正之は、長岡に帰ってスキーを紹介、さらに同月レルヒが長岡を訪れ、悠久山で長岡中学校の生徒らにスキーを披露した。翌45年1月には高田の第58連隊が悠久山で演習を行い、市民が参観に訪れてスキーへの関心が高まった。2月に越信スキー倶楽部が発足すると長岡には支部ができた。会員は約80人で倶楽部主催の講習会を悠久山で開いた。大正2年に入ると新潟新聞は講習会の案内を記事に載せ、参加者の輪を広げた。また長岡郵便局は「積雪のため交通途絶の場合にはスキーを使用して逓送および集配用に利用する」として講習会に参加させたとの記事もある。 |
大 正 2 年 | |
2・11 | レルヒコースの大会は、「第1回全国スキー大会」として日本スキークラブの主催で実施された。 |
大正2年2月長岡外史が京都師団長に転任し、後任に秋山 好古が赴任したが、彼はスキーには全く消極的であった。また、第13師団が満州守備を命ぜられたことにより、日本 スキー倶楽部の主脳部全員が不在となって活動停止の運命となる。この後約10年間は、スキーが民間人の手に移って、全国の積雪地に浸透し、普及発展した時代と言える。 | |
3・1 | 全国雪艇大競技会(田口)同地に支部設置、講習会開催。 |
全国で初めてのスキー製作 |
明治末年から大正にかけて、高田市下田端町の横山喜作という大工で、堀内大佐の命令で作ったのが始まりといわれている。用材は、けやきやくり材で、当時の高田の湿雪に合った用材がえらばれた。 |
大 正 3 年 | |
1・5 | 日本スキークラブの酒井薫、富士スキー登山で遭難、初の犠牲者となる。 |
2・15 | 妙高スキークラブ創設(会長星野錫) |
この頃、妙高温泉西側の北国街道沿いに馬場スキー場開設。2・25に第1回講習会が開催された。 |
大 正 4 年 | |
帝大河本禎助博士一行20余名が、赤倉でスキー合宿、その地に大学スロープの名を留める。 | |
3・14 | 中魚沼郡スキークラブ、スキー競技会開催(十日町) |
大 正 6 年 | |
12・ | 関山スキークラブ結成 代表村越総蔵 会員200名 |
関温泉裏斜面一部畑地をスキー場として、関温泉スキー場開設。 |
大 正 7 年 | |
2・11 | 長岡スキークラブ創設 代表松木喜之七 |
現在、小・中・高体連をふくめて24団体から成る長岡スキー協会に発展している。歴代会長には5代増田真一、7代鷲津正美、9代諸里忠治等著名人が見られ、第2次世界大戦で全市が焼土と化した一時期を除き、目覚しい活躍が続けられている。 | |
2・17 | 県下スキー大会(金谷山) |
安藤師団長、長岡外史将軍、渡辺県知事等臨席。 | |
4・ | 全小千谷スキークラブ創設 初代会長山本晋町長 |
発会式兼スキー大会を小千谷中学校で開催。 |
「雪艇学生歌」「雪艇俗謡」誕生 |
●大正8年2月、高田日報社募集で全国で初めてのスキー歌謡として発表し、スキー発祥地高田を全国に広める。 |
●大正15年1月、スキー民謡「さらさらと」「雪のお山で」に発展した。 |
大 正 8 年 | |
2・16 | 県主催スキー大会(高田市郊外) |
参加者 508名、長野、京都、樺太からも参加。 |
大 正 9 年 | |
2・ | 高田フラタナルスキークラブ創設。 |
高田中学スキー部はこのような名称をつけ、1ケ5円の豪華なバッチをつくり会員章とした。 | |
2・22 | 県主催全国スキー大会(高田市郊外) |
大 正 1 0 年 | |||
2・12 | 東京スキークラブ主催「日本スキー選手権大会」赤倉で開催。 | ||
滑降3,500m | 専門学校l位 | 仙波 猛(新潟高校) | |
中等学校1位 | 竹内 (高 田 師) | ||
倶楽部1位 | 霜鳥 外吉(関 山) | ||
継走3,600m | 専門学校1位 | 新潟高校 | |
中等学校1位 | 高田中 | ||
滑降1,500m | 専門学校1位 | 永田 弘(早 大) | |
中等学校1位 | 丸山 竜三(高 田 師) | ||
クリスチャニア・スラローム | 1位 | 永田 弘(早大) | |
2・13 | 県主催第4回全国スキー競技会(妙高) | ||
2・ | 赤倉スキークラブ結成 | ||
3・ | 日本体育協会内にスキー部設置 | ||
3・5 | 高田スキー団結成、団長 市長川合直次 | ||
スキー発祥後間もなく発足した高田スキークラブは、越信スキークラブとなり、日本スキークラブと発展、自然消滅したが、地元の人たちだけで高田スキークラブとして存続したらしい。その中の高橋進、阿部正量、神田茂一、岡田則利、堀田正之、室俊治、原豊治の7人が発起し、高田スキー団を結成した。事務所は高田市役所に置き、昭和27・8年頃まで市長が団長に推されたが、歴代の副団長には鶴見宣信、保科武雄、長谷川増吉(9代団長)、上石巌(10代団長)等、著名人がしるされている | |||
5・ | シュナイダー主演映画「スキーの驚異」公開 |
大正11年 | |
2・ | 小千谷スキー倶楽部主催、スキー講習会とスキー大会(船岡山)県官出席、 |
会長高木北魚沼郡長。副会長早船小千谷中学校長、審判係小沢工兵大隊副官、駒形大尉、串田警察署長、荒井税務署長、羽出憲兵分遣所長、接待係中学教頭、町長、小学校長、郡書記、町書記、競技係、賞品係会場係は、小中学の先生と倶楽部役員で、中越全般に案内された | |
2・12 | 東京スキークラブ主催スキー選手権大会(妙高) |
帝大、早大、法大、農大、高等師範参加、総合で新潟高校優勝。 | |
2・26 | 第1回大日本スキー大会(金谷山) |
この時大日本スキー会の発会式挙行(会長太田知事) | |
12・30 | 秩父、高松両宮殿下、赤倉にてスキー御練習。 |
宮様スキー珍談 | |
秩父、高松両宮殿下のスキー御練習開始は赤倉で、田口から歩いて細川候の別邸にお入りになった。 12.3才くらいの男の子「お前さまは天子様の子供だそうだがほんとうかい」殿下「うんそうだよ」男の子「それにしちゃスキーが下手だね」「下手だからここへけいこに来ているんだよ」。殿下「お前の一番好きなのはなんだい」「めしだよ」「それじゃその次に好きなものはなんだ」「おかずだよ」(殿下哄笑) 秩父宮にまつわる珍談である。 |
大 正 1 2 年 | |
1・20 | 全日本スキー選手権新潟予選会(金谷山) |
2・10〜11 | 第1回全日本スキー選手権大会が、小樽で開催される。 |
大日本体育協会の主催で、初めての本格的なスキー競技会として開催され、樺太・北海道・東北・信越・関東・関西の六地区対抗とし、各地区の予選を通過したものが、出場権を得ることに決められていた。1キロ、4キロ、10キロ、3キロリレー、ジャンプ、クリスチャニア、テレマークの種目てあったが、オーストリーアルペンスキーの信越側選手は、すくなからず勝手のちがう思いをさせられた。 入賞は、8キロリレー 4位 信越チーム テレマークスラローム 1位 深沢 謙吾(高田師範) クリスチャニアスラローム 4位 吉越 五郎(高 田 中)にすぎなかった. |
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2・17 | 米峰スキー連盟創立(会長 洲崎義郎) |
米峰の合宿は年始休みが方恒例で昭和10年頃まで続いた。県と共催でスキー講習会を実施したり、上石厳・島掛藤次郎・川合武美等が中心となって初期の黄金時代を築いた。 | |
北条スキー場開設、翌13年には高柳スキー場開設 ロープトー一基とハウス |
大 正 1 3 年 | |
1・27 | 大日本スキー会主催第2回全日本選手権信越予選(高田市外南葉山) |
2・16〜17 | 第2回全日本選手権大会(高田) |
レルヒコースを中心にコースが設定され、信越選手の圧勝となった。11kmで山崎正広(妙高)4km矢沢武雄(高田中)優勝。 | |
4・ | 妙高温泉大天井スキー場開設 |
7・3 | 県主催第1回県下中等学校体育科担当教諭協議会で新潟県体育協会の設立を決定。 |
大 正 1 4 年 | |
1・14 | 大日本スキー会主催第3回全日本選手権信越予選(高田市郊外) |
2・14〜15 | 第3回全日本選手権大会(大鰐) |
2・15 | 全日本スキー連盟創設 |
会長稲田昌植男爵、発企団体中に高田スキー団、妙高スキークラブ、長岡スキークラブ、新潟高校スキー部などが見られる。連盟の本部を東京に置くか、札幌にするかということをめぐって、会議はもみにもまれ、結局「本部は東京、事務所は札幌」といぅ折衷案で、ようやく誕生を見た。実際には不便なため札幌事務所はわずか一年で廃止となり、本部も事務所も東京一本になった。 | |
2・21 | 高田スキー団主催第1回全日本女子スキー選手権大会 |
高田金谷山で開催されたこの大会には、県下から小千谷高女、高田高女、東北から弘前高女等が参加し、特に地元の大貫小、東頚中保倉小の小学生らは女学生をしのぐ成績をおさめた。 | |
この成功により、昭和3年以後の神宮大会に女子種目が加えられることになった。 | |
2・ | 新潟県主催スキー講習会とスキー大会(小千谷・ヒ生山) |
講習会は学校職員45名を対象に3日間行われ、翌日の競技会は、小千谷近郷の各学校、小出小、上組小、長岡スキー倶楽部等数百名参加で盛況であった。 | |
3・24 | 全日本スキー連盟 日本体育協会に加盟 |
10・17 | 全日本スキー連盟第1回代表委員会 |
出席者中に、長岡松木嘉之七、高田鶴見宜信、妙高大林新治が見られ、確認された加盟団体23団体中に、本県関係では長岡スキークラブ、高田スキー団、妙高スキークラブがある。 | |
12・ | 苗場スキークラブ創設(会長関不二男) |
大 正 1 5 年 | |
1・9 | 大日本スキー会新潟支部を新潟県スキー会と改称、県庁参事会室で開催の理事会で決定。 |
2・2 | 全日本スキー連盟、国際スキー連盟(FIS)に加盟 |
2・6〜7 | 第4回日本選手権大会(樺太豊原) |
全日本スキー連盟の最初の事業として主催した。この大会から地域対抗をやめ、新しく制定した全日本スキー 連盟競技規定により、距離競技の同時出発をやめた。 矢沢武雄10kmに優勝 |
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2・13 | 新潟県スキー会主催第1回県下スキー大会(高田陸軍射撃場) |
2・21 | 高田スキー団主催第2回全日本女子スキー選手権大会(金谷山) 高田高女優勝。 |
2・28 | 県主催県下女子スキー競技大会(長岡悠久山) |
7・25 | 新潟県体育協会発会式(新潟師範学校講堂) |
当時の県下体育団体数は93で、その内スキー団体は23であった。 | |
10・ | 全日本大学専門学校スキー競技連盟結成 |
12・25 | 大正天皇崩御 |
諒闇(百日の喪に服す)のため、いっさい競技は延期または中止となり、昭和元年は一週間て終り、昭和2年は、まったく空白のシーズンとなった。 |
県下少年少女スキー大会(小千谷・船岡山) |
この大会がこの頃から始まったと思われる。小千谷近辺の小学校・高等小学校の生徒を集め、毎年行われ終戦近くまで続いた。この大会がいかに小千谷のスキー選手の卵を育てることに役立ったことか、また応援団をふくめ、スキーの普及と見解に貢献したこと大である。 |
昭 和 2 年 | |
11・15 | 津川スキークラブ創設(会長広瀬市次) |
当初は麟城スキークラブと称した。 | |
11・ | 全日本スキー連盟、スキー年鑑を発刊 |
池の平温泉スキー場開設 | |
この年の第4回明治神宮体育大会から、スキーの部が設けられ、上石巌外本県選手が活躍した。 |
昭 和 3 年 | |
1・14 | 神宮体育大会スキー競技。北陸下越予選会(津川赤崎山)中越予選会(長岡悠久山)上越予選会(金谷山) |
1・14〜 | 第1回学生選手権大会(大鰐) 日本で初めて複合競技が登場 |
1・ | 小千谷芸技スキー団組織 |
寄付者による紋平袴も出来上り、近く雪を蹴って猛練習まらん | |
2・4〜5 | 第6回全日本選手権大会(札幌) |
安田スキー場開設 | |
吉川町国田、岩ノ原スキー場開設 | |
レルヒ直伝、横田常力氏 スキー持参して、有志・学童に普及伝達 | |
2・11〜12 | 第4回神宮スキー大会(高田金谷山) |
(スキーとしては第1回になる。) | |
現在の国民体育大会の前身明治神宮大会は夏季はすでに三回を数えていた。スキー競技を広く厚く各地に浸透させ、埋もれた逸材の発堀、新人のデビューにもまたとないチャンスを作るということから、スキー大会の開催のための努力が重ねられ、スキー発祥にちなみ、高田で開かれた。第6回全日本選手権の札幌大会からわずか五日後であったためと、学生試験の時期でもあり北海道・樺太と学生軍の参加は得られなかったが、松橋朝―、清水麟一が少年組で1・2位を占め、成年組の優勝者宮下義明に4分の大差をつけるなど、大きい収穫があった。 | |
2・14〜 | 第2回冬季オリンピック(サンモリッツ)に7名の選手を派遣 監督 広田戸七郎(北大出) 選手 高橋 昂(早大出)麻生武治(早大出)伴 素彦(北大)矢沢(保科)武雄(早大)竹節作大(早大)永田 実(早大) |
選子派遣は決ったが、遠征費の捻出は容易でなかった。体協は岸会長をはじめスキーにはきわめて冷たく、旅券下付に対する保証印さえ渋った。さし当たり片道の旅費だけを工面した鉄砲玉旅行で、昭和2年12月17日東京駅を出発朝鮮海峡を渡り、満州からシべリヤ鉄道を経由し、サンモリッツに到着したのは1月8日であった。 オリンピックに先立ってのコルチナ・ダンペッツォの国際学生スキー大会(今でいうユニバーシアード)での成績は、16キロで4位矢沢、6位竹節、意気は大いに上がり滑降競技に出場したところ、他国の連手は幅広いアルペンスキーをはいている。日本選手のレース用の細い軽いスキーをみて、「お前たち、そのスキーて滑るのか」とおどろいたというが、結果は4位永田、6位矢沢、回転でも3位永田、9位竹節。しかしヨーロッパことに北欧のスキーの強者たちに、学生選手というのはほとんどいない。この成績がそのままオリンピックに通用するはずもなかった。 50キロで日本の最高位永田は24位、優勝者とのタイム差は1時間10分、18キロで矢沢は44人中26位。初回の参加としては上々の成績といえる。北欧はともかくとして、中欧とほとんど遜色がないことが認められた。 |
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3・14 | 第1回県青年団スキー大会(長岡悠久山) |
3・ | 栃尾スキー協会創設(会長 稲田豊八) |
初めて積雪期に、カンジキを履いて守門岳に挑戦したところ、長岡のスキー愛好者が松木喜之七氏をリーダーに、スキーで守門を登り、すべり降りるのに出逢い、これにしげきされて、アパル会として創設した。22年栃尾スキークラブとなり、後栃尾市スキー協会となる。 | |
12・31 | ノルウェーの世界的ジャンパー、オーラフ・ヘルセット一行来日 |
ヘルセットの話 | |
秩父宮は早くから熱心なスキーの支持者であり、御自身もスキー技に熟達しておられた。昭和3年2月、北海道にスキーにいかれた時、札幌に目をおつけになり、ここに大きなジャンプ台を建設し、その他の施設を充実させれば、世界的なスキー場になると判断され、そのためにまず先進国から識者を招くことをお考えになった。 殿下はこのことを大倉喜七郎男爵にお話になった。まさに鶴の一声であり、話はトントン拍子にすすみ、当事者の連盟が戸惑うほどの迅速さで、ヘルセット一行の来日となった。ヘルセットはヨオン・スネルスルード(サンモリッツ大会の複合2位)オウレ・コルテルード(若手複合選手)の二選手を伴ってきて、ジャンプはもちろん、高田の距離コースなども指導した。日本の競技スキーの発達はヘルセットに負うところが大きい。 | |
この年、山森都(サンモリッツ)クラブの名称で、小出スキークラブが発足している。 |
昭 和 4 年 | |
1・ | 十日町スキークラブ創設(会長 野沢行蔵) |
22年中魚沼郡スキー連盟となり、30年市制施行により現十日町スキー協会となる。 | |
2・2〜3 | 第7回全日本選手権大会(高田) |
ヘルセット一行が来高し、自らスコップを持って白旗山のジャンプ台を雪で改造して使用した。日本選手は28m,スネルスルードは38m飛んだ。 | |
40kmで上石巌、18kmで後藤五―郎、継走は妙高ク(松橋朝一・宮下義明・川久保忠義・後藤五一郎)と、県勢距離三冠を制覇。 | |
リレーで妙高クラブのトップを走ったのは18キロで後藤についで2位に入った松橋少年てあった。早大の山口幸―は、このときまでリレーを11回走りー度も抜かれた経験がなかったが、「お先に失礼します」とばかていねいに言って追い越していく松橋の登行を見て、一時空いた口がふさがらなかったという。松橋はゴム長にレース用のスキー、ビンディングは普通の雪国の子供の履くようなやつで、スリップなどまったくしない、よく見ると開脚の度にゴム長がよじれ、踵がスキーの外に出て、直接雪面をとらえている。彼の登行のシュプールはスキーの横に踵の穴が行儀よくならんでいた。 | |
2・16 | 県体育協会主催第1回県下スキー選手権大会(津川赤崎山スキー場) |
2・17 | 赤城ジャンプ大会 |
猪谷六合雄が独学独立で設立したジャンプ台に、ノルウェイの一行を招待して開催されたが、彼等は世界的にも最優秀と激賞した。スネルスルード53m、伴48m、猪谷46mと、高田の全日本が28m、それまでの日本最長不倒距離が30mそこそこといった当時に、驚異的なレコードが続出した。 | |
2・27 | 新井スキー団創設(会長島田善治)51年より新井スキークラブとなる) |
3・3 | 第1回信越連合スキー競技会(新井)始まる。 |
昭 和 5 年 | |
1・5 | 金谷山山頂にスキー発祥記念碑建設、除幕式 |
1・29 | 新井舟岡山ジャンプ台(25m)竣工式 横山隆策宙返りジャンプ披露。 |
2・1〜2 | 第8回全日本選手権大会(大鰐) |
18kmに2位近藤守栄、3位矢沢武雄、4位清水麟一、同4位後藤五一郎、5位小島信義、6位松橋朝一と高田と妙高の選手が6人も続いて入賞 | |
2・8〜9 | 第5回神宮スキー大会(野沢) |
2・21 | 第2回信越連合スキー競技会(新井) この時よりジャンプ競技が登場。 |
3・1 | 県体育協会主催第2回県下スキー選手権大会(船岡山スキー場) |
3・15 | ハンネスシュナイダー来日 |
玉川学園長小原国芳の招きによるものであるが、彼が故郷サンアントンにスキー学校を経営するプロ・スキーヤーであるため、連盟としては立場上傍観ということになった。滞在は約1ヵ月、直接間接に彼の指導を受けた者は数万人に及ぶ。当時はアルペン競技がなかったので競技に対する影響はなかったが、ヘルセットが競技スキーの大恩人であると同じ程度に、一般スキー、山スキーの大恩人と言える。 |
大正末期、関山スキークラブに加入していた会員が、昭和5年七曜会スキークラブを発足した。当時7名の会員で代表布施善太郎、その後旅館組合の組織に合流して活動し、昭和22年「山と高原スキー教室」を受け入れするに際して独立。関温泉スキークラブとなる。 |
昭和初期の長距離スキー競技会 |
第2回全日本スキー選手権大会が、大正13年2月高田金谷山で開催されて後、各種長距離スキー競技会が、信越地区を中心に選手の養成も兼ねて実施された。 ●飯山〜田口間 ●柏原〜高田間 ●妙高、焼、火打の頚城アルプススキー縦走 |