新潟県スキー連盟創設
昭 和 6 年
  満州事変勃発の年である。9月18日満鉄沿線柳条溝で線路爆破、関東軍は軍事行動を起こし日華両軍交戦に入る。政府は不拡大方針を決定したがおさえきれず、戦線は拡大して行った。この年全日本スキー連盟加盟団体は58団体となり、県内では、津川スキークラブ・長岡スキークラブ・小千谷スキークラブ・上古志スキークラブ・高田スキー団・妙高スキークラブ・新井スキー団の7団体が加盟。その他にも湯沢偉スキー猛団が、布場スキー場に団員の活動によってヒュッテを建設するとか、米峰スキークラブ主催の柏崎町中小学生連合スキー争覇戦が、同町郊外剣の山スロープで開催される。新津鉄道クラブ主催の管内スキー大会が、津川赤崎スキー場で開かれる。三島郡第一区教育研究会主催塚山スキークラブ後援のスキー大会が、塚山村西谷スロ一プにおいて開催された。等々。新聞紙上に日白押しに報道されており、スキー熱がほうはいとして高まって来ていることがくみとれる。
1・16 守門スキー荷頃クラブが、古志郡荷頃村の中崎スキー場開設に伴い創設、
1・24 新発田スキークラブ発会式
1・24〜25 全日本選手権北陸予選会(高田)
参加は、長岡商業・長岡工業・上古志ク・小千谷中・柏崎中・米峰ク・高田中・高田師・高田商工・高田農・金谷青年・中電スキー部・三間ク・新井農商・NSクの15団体、78名
2・7〜8 第9回全日本選手権大会(豊原)
50kmに上石厳、18kmに松橋朝一優勝
2・23 新潟県スキー連盟創立準備委員会、高田市役所にて開催。その場で発会式を挙げ、規約を制定した。
3・2 粟ヶ岳スキー登山の三条中学職員生徒が天候の急変により遭難、生徒の1人蝶名林隆二君が死亡。
4・1 湯沢スキー倶楽部創設(会長 佐藤喜一郎)、現湯沢スキー協会である。
湯沢のスキーの始まりは、レルヒのスキー発祥2年後、旧湯沢村諏訪町の本間栄太郎氏が、村民にスキーを紹介したことからと言われている。青年会の中にスキー愛好者が生まれ、大正13年エスキモーにちなんで「偉スキー猛団」が発足した。「又も負けたか偉スキー猛」の悪口にもめげず、練習に励み昭和9年県大会入賞、12年全日本入賞となって、以後開花することになる。
4・21 県スキー連盟代議員会
連盟規約を決定、昭和6年度歳入歳出予算並びに事業計画を協議した。
 会 長  小田 光伴  常務理事  田中 唯重
 理事長  鶴見 宣信 会 員 1,500名
 事務局  新潟県庁新潟県体育協会内
加盟団体及代表者名
妙高スキー倶楽部(星野  錫)   早川スキー倶楽部(島田 長止)
長岡  〃 (松木喜之七)      上古志 〃 (桜井 真吾)
高田フラタナル倶楽部(小林  茂)  越後山岳会 (中村文次郎)
岩原スキー倶楽部(原沢政五郎)  中魚沼郡スキー倶楽部(野口 精一)
湯沢  〃 (佐藤喜一郎)      小千谷スキー倶楽部(山本  晋)
津川 〃 (小林政五郎)       北条スキー団 (大倉 清一)
昭 和 会 (丹沢 美雄)      新井 〃 (島田 善治)
高田スキー団 (川合 直次     関山スキー倶楽部(内田 照太)
三国スキー倶楽部(雲尾 東岳)   金谷  〃 (横田又一郎)
赤谷  〃 (阿部誠之助)      芝田 〃
米峰スキー団 (洲崎 義郎)    荷頃 〃
弥彦スキー団
予算総額は450円で、歳出内容は
会議費 50円  事務費 40円 事業費 325円
内 県スキー大会 150円   山岳スキー大会 75円
スキー指導者講習会 50円 スキー製作講習会 50円
連盟加盟金 10円  予備費 25円
 県スキー連盟の創立にあたって、松枝学務部長の力に負うところが大きかった。松枝学務部長は自らもスキーをよくし、上越国境の冬山を踏破したり岩原スキー場を県営で開拓したり、各地でアールべルグスキー術の講習会講演会を開催するなど、県スキー界の発展に大いに寄与したが、県下スキー界の連絡統一をはかりスキーの健全な発達を期する目的ばかりでなく、従来統一なく分散的であった各種運動競技団体の統制整備をはかり、県体育協会の組織改造を目指すため、先ずスキー連盟にその範をたれることを欲していたのである。
11・ 舞子高原スキークラブ創設(会長今井督治)
中之島、上田富士、石打後楽園、舞子高原とクラブ名を変えて、引継がれ現在に至っている。
12・1 六日町スキークラブ創設(会長腰越寿一郎)

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