故前山敏男氏
住   所 南魚沼郡塩沢町宮野下541-3
生年月日 昭和4年9月18日生
没年月日 平成15年8月19日没

略    歴
昭和28年3月 中央大学法学部卒業
昭和28年11月〜34年3月 糸魚川市立西海中学校
   34年4月〜41年3月   〃     根知中学校
   41年4月〜46年3月 塩沢町立石打中学校
   46年4月〜48年3月 第28回国民体育大会(スキー) 新潟事務局
   48年4月〜56年3月 塩沢町立塩沢中学校
   56年4月〜59年3月 小出町立小出中学校
   59年4月〜62年3月 塩沢町立塩沢中学校
平成元年8月〜7年5月 スポーツ振興石打スキー場
ス キ ー 歴
昭和29年〜昭和62年 中学校教員としてアルペンスキー部を担 当し指導に当る。国体事務局在任中もアルペン競技・宿泊・ 広報宣伝・選手強化部を担当。
昭和37年〜昭和44年 国体アルペン競技・教員組選手として7 回出場、39年の高田・妙高国体では入賞。
昭和56年〜平成元年 全日本ベテラン大会(オールドパワー大会)に連続出場、7回上位入賞
平成6年〜平成14年 全日本スキーマスターズに13年を除き出場、7年の池の平大会で優勝。
平成10年〜 自ら主宰して開催を始めた新潟県スキーマスターズでは65才代、70才代で常勝。
役   職    歴
新潟県中学校体育連盟スキー部々長として、新潟県スキー連盟理事に就任、スキー部長退任に伴い理事も退任したが、一貫してアルペン部、スキーにいがた編集部委員として尽力。
平成10年6月 スキーにいがた編集部々長、マスターズ委員会委員長として、理事再任。現在に至るが、他に中越協議会常任理事、同アルペン部副部長、石打大和スキー学校長。
表   彰    歴
昭和56年 新潟県スキー連盟 組織功労章
昭和59年 (財)新潟県体育協会 優秀指導者章
平成3年 (財)新潟県スキー連盟 スキーにいがた編集功労
平成8年 (財)全日本スキー連盟 競技スキー功労者
資   格
日本体育協会 1級スポーツトレーナー ・全日本スキー連盟公認 競技技術指導員 ・同 競技会運営指導員・ 同 教育本部功労指導員 ・同 基礎教育スキー指導員 ・日本陸上競技連盟 公認審判員



        
                     弔   辞

                                    財団法人新潟県スキー連盟
                                       顧 問   藤 田 道 郎

 財団法人新潟県スキー連盟理事、スキーにいがた編集部長、マスターズ委員会委員長、アルペン企画運営部員、中越協議会常任理事、石打大和スキー学校校長、前山敏男先生の惜しみても余りある御逝去を悼み、財団法人新潟県スキー連盟は、哀悼の誠をもって御霊前にぬかずき、謹んで御冥福をお祈り致します。
 先生は昭和三十八年、中体連専門委員として県連理事に就任以来、 長い間本県スキー界発展のため、ご尽力されました。そのご功績は、枚挙にいとまがありませんが、輝かしい御功績の中でも、ジュニア選手の育成と、年鑑「スキーにいがた」の発展、マスターズスキーの振興が特筆されます。  昭和三十四年根知中就任以来、中学校アルペンスキーの指導に当られ、自らも国体に7回に及び出場され入賞も果されており、その貴重なご経験に基づいた実践的なご指導は、全国大会の優勝者を始め、優秀選手の育成に多大な成果を上げ、昭和五十八年には新潟県体育協会の優秀指導者章を受賞、平成八年全日本スキー連盟競技スキー功労賞に輝いております。
 また、昭和五十年の年鑑「スキーにいがた」創刊以来のただ一人の編集部員として、平成十年以降は編集部長として、スキー環境の悪化による内容の圧縮、減頁等の難問を処理しながらも、連盟の足跡を貴重な遺産として残し、スキーの普及、底辺拡大にも大きく貢献されております。
 近年生涯スポーツの振興が叫ばれ、マスターズスキーが再認識され、競技人口も増加しております。先見の目があると申しましょうか。先生は早くから全日本マスターズに参加され、優勝もされている訳ですが、単に個人の活動に留めず、スキーマスターズ新潟の会を発足させ、県大会を組織し今年は第7回を数え、益々隆盛の道をたどっております。 新潟県スキー連盟は、惜しい人を失いました。今先生とお別れすることは残念でなりません。残された私どもは、先生のスキーにかけた情熱と多伎に渡るご功績を指標として、スキー界発展のため、邁進する所存であります。どうぞ安らかにお眠り下さい。心からご冥福をお祈り申し上げます。                                合掌。
 平成十五年八月二十二日

     謹んで お別れの真を棒げます。
                                  友人代表  妙高高原 岡 田 幸 治
 前山先生、貴方からご紹介とご指導をいただいて、開催して参りました新潟スキーマスターズ新井大会は、今や全国規模へと発展し、来シーズン五月の大会で第五回目を迎えることになりました。  その大会要項を、各都道府県スキー連盟宛と貴方にお届けしようとして準備の最中、貴方の訃報を手にしました。余りの驚きに、ただ唖然としながらも、友人の一人して貴方の御霊に最後のお別れの言葉を棒げるように、とのご案内をいただきました。余りの急なことで、果たして、この大役を全うできるか、大変不安でありましたが、ご生前にお届けしなければなら なかった第五回スキーマスダーズ大会の正式な要項と共に、ここに謹んでお別れの真を捧げるしだいです。
 前山先生、貴方との真の出会いは、貴方が郷里糸魚川地区の中学校教員時代の、確か、昭和三十七年一月、六日町の八箇峠スキー場で開催された新潟県国体スキー大会予選会の時でした。この予選会で、今ご出席いただいています岸野先生。先は旅立たれました桑原先生。そして貴方と私の四人が新潟県教員組の代表として、その二月、北海道の小樽天拘山で開催されました、第十七回国体スキー大会に出場できました。このことは、貴方にとりまして、その後スキー界で活躍される初の桧舞台であったと、後で貴方からお聞きしました。  これを契機に、貴方は私どもと共に県中学校体育連盟スキー専門委員として、さらには、県スキー連盟ジュニア委員として、小中学生を中心としましたジュニア選手育成のため、大変ご努力をいただきました。そして昭和五十七年県中体連スキー部長職を貴方から引継ぎました。そのバトンは、貴方のご意見もありまして、その後の貴方の心の友として、そして今貴方の告別の儀の世話役の一人として、お務めいただいています清塚先生から引き継いでいただきましたことは、予てご承知のことであります。  以来、貴方はお年を重ねると共に、基礎スキー指導員ヒして、県スキーマスターズ委員長など、県スキー連盟の各種要職に就任され、ご尽力を賜わり、今日に至りました。  これらは、貴方が、青春時代に体操選手として培われました、しなやかな体力と、持ち前の明るさ、そして慎重さの中にも積極的な行動力を発揮される貴方の人格に、絶大な信頼を寄せられた賜ものであり、日頃敬服しながらお付き合いをさせていただきました。
 そのお付き合いの中で、楽しく、大変懐かしい想い出でありましたのは中体連スキー部0B仲間で、平成八年夏のニュージーランドスキー遠征。そして、平成十一年十二月、若い女性スキーヤーらと共に訪問したカナダウィスラースキー場遠征でした。お誘いして本当によかったと思います。  こうして、貴方との出会いから、過ぎし四十年の歳月に想いを馳せる今 よもや、貴方が、あのような厳しい病魔に襲われ、二度にわたる大変な手術をされようとは、ゆめゆめ想いもしませんでした。昨晩、貴方の御霊に捧げるお別れの言葉をしたためるに当たり、その想い出をたどりながら、永遠にお別れしなければならなくなった人生の儚さ、その無常さに、悲しく涙しました。  人生今や八十年と申されますが、その尊さを全うすることなく、永久の旅路に向かわれることになられた貴方は、さぞ残念で、心のこりなことでありましょう。私どもの、残されました人生にとりましても、これほど早い貴方とのお別れは、余りにも悲しく、大変寂しくなります。これからは、在りし日の貴方に想いを寄せ、これまでお寄せいただいた数々のご好意とご教訓を、いつまでも忘れることなく、残された人生を全うして参る所存であります。そして、もし、どこかで落ちこぼれそうになりましたなら、これからの貴方は、いつも、どこでもお見通しですので、叱咤激励し、お導きを賜わりますよう心からお祈り申し上げて、 まだまだ、名残り尽きませぬが、どうぞ安らかに、そしてごゆっくり お休み下さい。  終りに、貴方の御霊に心からのご冥福をお祈り申し上げ、  なお、言葉至りまぜぬが、お別れと致します。  平成十五年八月二十二日

                 弔  辞

                        株式会社日本リフトサービス     小 野 塚  茂  

 先生、石打中学校を卒業して35年も経つのに、私にとって前山敏男さんをお呼びするときは今だに前山先生、又は単に先生なのであります。今日ここに先生の友人葬が執り行われるにあたり謹んでご霊前に哀悼のことばを捧げます。
 8月に入り2度ほど、お見舞いに伺いましたが、病と戦っておられる姿に、今日のこの日が1日でも遅くなって欲しいと強く念じていましたが、亡くなられたとの悲しい知らせに全身の力が抜けてしまい、しばらくその場を動く事ができませんでした。  思い起こせば、昭和41年札幌オリンピックの選手強化の指定を受けた、塩沢町立石打中学校に赴任され、先生とのお付き合いがはじまりました。特にスキー部の顧問として指導を受け、中学3年のときの全国中学で引率いただき優勝することができたのも、先生のご指導のお陰と感謝しております。従来のスキートレーニングと言えば走ることしかなかった時代に早くもサーキットトレーニングを採用し、指導いただきその後ナショナルチームに所属してスキーをすることができたのも、先生からご指導いただいたトレーニングの蓄積があったからと深く感謝しております。  先生は常に勉強にもスポーツ特にスキーにも、率先して手本となって私どもを引っ張ってくれました。そしてなにより、厳しいなかにも、優しく、さらに優しい言葉がけをしてくれました。私どもが社会人になっても、いつも見守っていてくれました。何かお願いごとをしても、いやな顔ひとつ見せず、教え子の頼みをいろんな場面でこなしてくれ、力となって下さいました。何度かゴルフにも行きましたね、楽しそうにボールを追い軽やかにフェアウエーを歩いておられた先生のお姿が目に浮かびます。もうご一緒できない、叶わないことと思うと残念で、残念でなりません。もっと、もっとゴルフもスキーもご一緒したかった。  先生が私どもに与えて下さいました、『人に優しく、礼節をわきまえ、常に一生懸命』これをこれからの心の糧として生きて行きます。先生が亡くなられて初めて私どもの自立が始まるのかもしれません。今まで、たくさん甘えさせてくれて本当に有難うございました。何一つお返しが出来なかったのが、大変残念です。  先生、さびしいけれどお別れです。中学時代スキーの練習時によくスタートでスタートコールを発して下さいましたね、今日はわたしが先生ひとりの為にスタートコールを送ります。  10秒前、5秒前、4,3,2,1前山敏男さんスタート  ここに故前山敏男先生の在りし日の面影にその人となりを偲び、こころよりご冥福をおいのり申し上げ、『有難うございました。この言葉を添えて』お別れのことばと致します。どうぞ、安らかにお眠り下さい。                                    合掌  
 平成十五年八月二十二日

大山 2位入賞

                  むすこより  
                                    前 山 朋 洋
 スキーが好きで、スキーを中心に考え生きてきた親父らしい最後だったと思います。昨シーズン雪解けと共に容態が悪くなり、今度の雪を待ちきれずに逝ってしまいました。また雪が降りスキー場が動き始めますが、父のいなくなったゲレンデに立つと実感として悲しみが再燃しそうで、これからも私がスキーを履き続ける事に戸惑いを感じています。
 私と兄が未だ小さいころから、父はスキーに夢中だったようで、生まれ故郷の糸魚川近くの宝生スキー場という所でスキーを習い始めたころから、私の記憶は「親父は相手にしてくれないなあ・・・」という感じで、スキーも母に習っていたものでした。リフトに乗っていて雪に板を引っかけ、落ちそうになりながら必死に椅子に掴まっていたときも、前に乗っていた母に大声で叱られていました。ただ一つ記憶に残っているのは、スキー場からの細くて片側が崖の恐ろしい下山コースを、父の両腕に兄と私が両脇に抱えられ、凄いスピードで滑り降りた事くらいです。今、自分が子供を持つ父親になって、スキー場に行くと、あの頃の父が子供を構うことも忘れ滑っていた気持ちが判るようになりました。  癌という病気にかかっていると診断され、摘出手術を受けた後のシーズンは闘病生活になると思っていましたが、その年のシーズンが始まると共にかなりの回復をみせ、シーズン中もスキースクールに来てとても楽しそうに滑っていました。 昔から首を怪我しても、母の心配をよそにネックカラーをしたまま滑っていたり、膝の靭帯を怪我したときも「スキーは片足で十分」と言いながら、スクールの前を気持ちよさそうに流していたりと、本当に滑ることが好きで、雪が好きで、スキー学校が大好きな親父でした。父は地位とか名声より純粋にスキーを楽しんでいました。確かにそれなりの地位に就くことが嫌なわけはないはすですが、地位が目的ではなく、とにかく真摯にスキーに打ち込んでいたんだと思います。ただその一途さゆえ周囲の方々にはご迷惑や苛立ちを与えたこともあったかと思いますが、スキーを愛するがゆえの事とお許し下さい。
 癌になってからの毎日はそれまでと違い、更にマスターズや「スキーにいがた」と頑張り、母そして兄、私に「マスターズとスキーにいがたに命を取られるから、程々にして他の人たちに任せて引退してくれ」という願いにも耳を貸さずに、仕事仕事と言い続け、会議だ大会だと限られた命をすり減らしながら出掛けていました。いつもいつも帰ってくるとへとへとになり、何日かは体調が悪く、家を出られない日が続くような状態でしたが、また大会の応援要請等があると出掛けていきました。そんな中私と母の心配は、父と一緒に仕事をしていただいている方々に迷惑では無いのか?という事でした。母はいつも「前山さんは何もあんな体になって出てこなくて良いのに」と言われている筈で、みっともないから行かないで、といつもいつも言ってましたが、父は全く言うことを聞かず楽しそうに出掛けていました。  今の時代では少し奇異に見えるほどーつのことに打ち込み続ける父の事は、同じスキーをやっている私には尊敬出来る部分と理解できない部分とがありました。人間関係にストレスを感じながらやっていて楽しいのか?何故言いたいことを我慢しながら続けるのかが判らずに見てましたが、この度父が再入院し、はからずもその生涯を閉じる事になりましたが、この事をきっかけに疑問が無くなりました。  入院中訪れてくれた沢山の方々が、父をねぎらい心配して掛けてくれた言葉を聞き、告別式に参列して頂いた友人や教え子の方々の暖かい感動的な涙を見て、私は父を誇らしく思えました。私の父がスキーに打ち込んでいた事に対する疑問や理解できなかった事がすべて解決されました。本当にすばらしいご友人達に恵まれ、年齢が離れていようとも、教え子という関係でもそれを越えて父を援助して頂いたりし本当に父は幸せだったと思います。命を削ってもスキーに携わり、みんなの所に顔を出したかった父の気持ちが理解できました。本当にすばらしい人たちに囲まれていたのだと判りました。  父が亡くなって私たち家族‥私だけかもしれないですが、変な言い方だけど何となくー段落ついた感じでしたが、この度の掲載依頼の件を聞いたりすると、父の事を考えて頂いている方々の心の中に生き続けさせて頂いていることを、言葉に言い表せないくらい嬉しく思います。
 父が生前お世話になり面倒を見ていただいた方々や病気になってから気遣って下さった方々にはお礼の方法も見つからないですが、心から感謝しております。 最後に、息を引き取った当日から父の為にご尽力を傾け、少ない日程の中大変なご苦労をしてすばらしい告別式を執り行ってくれた、葬儀委員長の高橋喜平太さんはじめ多くの方々にお礼を申し上げます。父も告別式の写真のように笑って喜んでいると思います。「本当にありがとうございました」。

遺 稿 集  思うことども より

生まれて そして 平成10年夏
                                         前 山 敏 男
 昭和28年3月、無事、大学卒業。目的を達したのと実家の生活を考えて郷里に戻ろうかなと思っていた時、友人の父が教育長をしていたことから話しが進み、隣村の中学教師として10月に赴任した。学期途中の赴任の為か、担当した教科は社会、国語(習字)、職業(ソロバン)、数学、英語と持たせられた。学校を知らないせいか別に驚きもせず、そんなものかと思った程度。それに放課後は進学の補修授業。翌年からは社会、図工、体育となった。クラブ活動は卓球。その頃、早川と小滝が常勝校。これに勝って上越地区でも上位に入り、県中学大会まで行く事ができた。冬には来海沢で小中合同のスキー大会もやった。
 やがて5年も過ぎた34年2月、校長から転任の話。気が進まぬままに根知中学へ。体育主任として赴任したのだが、当時は教育現場は教員不足の時代で、かなり柔軟な対応もあったようで、教科免許も無いのに、主任とはどんなものかと疑問もあり不安でもあった。 しかし体育実技に関しては、好きでもあったし、見た所では 他の体育教師と比較しても、何とかやれそうであった。 転任の不満もあり、12月に欠勤の手段として、痛くもない盲腸を切った。明けて昭和35年の冬、生徒と共に山の坊で行なわれた上越大会大回転に出場、転倒数知れずゴール。又、スキー指導の為、SAJの講習検定を大所で受けた。これが後の人生に大きい意味を持つきっかけとなった。3日目の朝を迎えたが筋肉痛で歩けず、検定を棄権しようかなと口にしたら、宿の主人に叱咤激励され何とか終了。発表も後の筈とぼんやりしていたら、隣の受験生に返事を促された。三級と思っていたのが何と一級に。これには派遣した校長や検定員の配慮があっての事と後で知った。そして翌年、勧められるままに準指検定受検、落ちて当然の自分が受かってしまった。以後、指導してくれた先輩教師に恥をかかせない為と、スキーが面白いことの両面でこれに没頭、指導員にも合格。更に昭和37年、夢の夢と思っていた冬季国体スキー競技に、教員組選手として出場、39年の赤倉国体では初入賞。この頃は地区をあげてスキー熱が高まっており、地区のスキー大会なども行なった。  やがて根知の城山で上越大会・県大会等を開催した。その後 も続けて国体に出場、7回もその感激を味わうことができた。
 同一校勤務7年で転任を勧められ、昭和41年、石打中学校へと赴任。一層スキーに集中することになった。  残雪まだ1メートル余、木造校舎の学校に着任。見知らぬ雪 深い魚沼で暮らす事になった。近くの民宿に下宿し夏はテニス、冬はスキー指導。学校の裏山のスキー場へ、放課後練習に通った。土曜も日曜も、年末年始も.大晦日と正月二日間は休んだが、その時はスキー学校で奉仕した。
 指導者仲間でもあり、ライバルでもある多くの教師仲間に出 会った。中でも桑原武夫氏には、大変引き立てて貰った。やがて昭和46年、第28回スキー国体の地元事務局員として勤務する事になった。この春は3月18日早朝、TBSスキー場での早朝練習中(柏崎三中との交歓会時)、スピードの出し過ぎで30メートル程もジャンプし、コース外の杉の木に衝突、意識不明のまま救出され病院へ。鼻骨々折と創傷、口唇部創傷、肋骨々折、脊椎・腰椎圧迫変形、全身打撲などと、かなりの重傷を負ったが、十日間で退院。翌日、長男が骨折し、上付き添いで病院に逆もどり。四月一日、腫れた顔をマスクで隠し、県教委へ挨拶に赴く。夏には三善参事、谷口氏と三人で、大山国体の準備状況視察。 48年の冬は暖冬小雪に苦しめられた。GS競技前夜は大雨、ゴール前後の平地は池となった。CCコースも水が浮き、田の畔が出る始末。然し、県選手も予想通りの好成績を挙げ、何とか成功裡に終了した。この年、苗場でワールドカップが開催された。国体事務局総出で、競技役員として応援に行った。  国体が終わり、塩沢中学校石打校舎(昭和47年に統合)に現場復帰、9月新校舎に入る。初めて通年のスキー部を作り活動。スキー場から遠くなり練習には苦労した。土、日の他は平日1回しか練習出来ず、レベルの低下が心配であった。 郡中体連の事務局、県中体連のスキー専門員や同部長として 全国大会に参加。  昭和56年、15年もの長きに亘った塩沢中から小出中へ、 そこで夏はテニス部、冬はスキー部を指導。テニスでは県大会 で個人戦(ペァ)優勝を果たし、長野での北信越大会へ。3年 後再び塩沢中学校へ戻り、昭和62年、満57歳で退職した。 退職後は、スキー、ゴルフ、庭いじり、家まわりの片づけ等、勤めている時にやれなかった「家の仕事」が、時を問わずにできることと、やっと自由になったという実感が身を包む。気にしなくて良い筈なのに、長年の習慣で出勤が頭をよぎり、行かななくて良いんだよと自分に言い聞かせる事もしばしばあった。 ほぼ1年後、近くのスキー場へ就職した。スキーの経験を生 かして、どれだけの力を出せるか、興味と意欲が湧いた。僅か 7年だったが、充分に力を発揮し、スキー場の売り上げも倍以 上に出来た。65才になったので、更に自由な自分になりたくて、会社を辞め、公的にはスキー連盟の仕事のみとした。
レ ー ス に 臨 ん で
[大山大会の帰路]  平成10年3月6日                     前 山 敏 男
 レースに臨み、どうするかは特に突き詰めて考えてはいなか った。とは云え何も考えずにスタートしているわけではないが 早い切り替えで大きい失敗をせずに、狙ったラインを通れば、 下位でも入賞できそうなレースを念頭においていた。  大山では、コースは余りにも堅いし、年齢も68才で3才下 の者と競うという不利もあり、確実性70〜80%、攻撃性20〜30%を目標にしたが、2、3旗門のミスがあったものの、概ね狙い通りであり、トップと3秒差の6位入賞はまずまずと言う所か。ただ3秒差は少し多すぎたようにも思えたが、年齢差のみならず、首・膝の故障も勘案すれば佳しとすべきかもしれない。(一日目のレースを終わって) 夜、同僚と酒を酌み交わしながら、第二戦の戦略をたてる。 明日のレースは確実性40%、攻撃性60%でトップとの差をつめたいが、若し転倒でもすれば、また、首の故障が悪化する心配があるので、首のコルセットを付けて滑ることにする。明日は多分、コースも今日よりはフラットになっているであろう。  第二戦当日。相変わらずコースは堅い。旗門のセットは何か 昨日より滑り易いように見えた。自分のフィーリングにあうの か。スタートから自分としてはかなり積極的に、インサイドを 突いて出たつもりだが途中からは平凡になり緩斜面もかなり攻 めたが、ゴール前のチェックポイントではやはり外に流されて しまった。どうかなと思いながらゴールした途端、「おぅ−」 という歓声が挙がった。応援の仲間達だ。これは悪くはないな と安堵しながら側へいくと「ニ位」だという。これは上出来と 自分に言い聞かせ、掲示板で更にタイムを確認した。然しまだ 後から昨日失敗した選手が来るので安心は出来ない。一抹の不安を残しながらもレースは終わり、二位が確定した。  しかし昨夜のレース作戦通りに滑れたかといえば必ずしもそうではなかったように思える。そして勝つためにはもっともっと攻撃性を高めなければならないと思った。攻撃性が100%の レースができることこそ王者なのであろう。まだまだ自分で自 分の力が把握出来ておらず、競技力(技術、発揮能力、知的判 断力等)のレベルが低いと感じた。 65才、66才と連続優勝。67才、68才がそれぞれ2位。年々年をとる中でこの成績は満足すべきものであろうと思う。今後もレースに臨む気力と健康状態を維持していきたいものだ。程良い緊張感と適度な運動は、若さを保つ秘決でもあろう。
暇・・・だから 忙しく
平成14年3月1日
 無職、年金生活、病後一年の療養中とあれば、暇な暮らしで せいぜい庭の草取り、盆栽の手入れ、部屋の掃除くらいの仕事 しかない、気楽さと退屈さが入り混じった日々を送っていると何かしたくなる、情熱を傾け、集中・没頭出来るものが欲しく なるのかも知れない。  冬はスキー学校運営を始め、スキー全般、夏はスキー年鑑の 編集と、程よく仕事がある他は、無職で療養が全ての、「老い の営み」で、晴れれば庭の手入れ、降れば部屋の片付けと、暇 だから出来る「なりわい」である。  こんな時、何か楽しいことはないかと考える。言わば欲張り なのであろう。頼まれれば選手の滑りを見られる楽しさから、 スキー大会の役員に赴き、又、自分が滑る楽しみから、マスタ ーズ大会を纏めたりと、知らず知らずのうちに、生活の空間が埋まってしまい、犠牲となるのは家庭と療養、そして忙しい毎日を送ることになった。 今年は、暖冬小雪と想われていたのに、年末から順調な降雪 に恵まれ、余寒の降雪で何時の間にやら大雪となって、後半ヘ 望みを繋いだ。 2月1日、2日の県マスターズ大会を終了し、一晩ぐつすり と寝た。翌日から公式成績表の作成やら全日本の申し込み整理 と、夜が忙しい。(昼間はスキー学校)これらを終了し、発送 完了したのが2月12日。やれやれと安堵できた。 さて今度こそ自分の練習を、と思った時は早や既に2月半ば、全日本に向けての心の準備も、用具の手入れもせずじまい、ましてやゲレンデの中に居ながらポール練習すらしていない有様、どうなることやら。残り十日のうちに何とかそれなりに満足でできる形にしたいと思う日々であった。 暇・・だから忙しくなった。いや、忙しくした、と言うべきだ。この機会こそ社会的に有意義な仕事をしたい、やらねばならないことが有るのではないかと思った。長年に亙るスキー。多くの先輩、多くの仲間と後輩。自分も楽しみ、大勢の人から何時までもスキーを楽しんでもらう為に、何を為すべきかと考えた未のマスターズであった。  暇だから考えた。一生懸命やりたいと思った。だから忙しく なった。完璧には出来ないまでも、体の続く限りはと思う毎日 である。五年前、大鰐大会の直後のことであった。
「思うことども」を纏め終わって
平成15年4月1日 
 昔は「エイプリル・フール」などと云って楽しんだものだ。 そんな日に、今、これを終わりにしておかないと、後書きが出来ても、冊子にする時間が無いぞ・・・と思い、スキー環境の区切りであり、年度の区切りでもある今日を、編集作業の転換機とすることとし、纏めを書いている。  思いつくままに文字にしておいた紀行文、追憶文、はた又俳句、短歌、詩、など。これを読み返すときに、往時の自分を頭の中に取り戻し、文章に隠れた記憶が更に蘇り、広がりをもって身を包んでくれるので、独りの時間が楽しく充実していく。
 この三月は大変に忙しかった。そのためだったらまだ良いのだが、半ばより体調が悪い。4月3日には医師から重要な診断結果を聞かされることになっている。朗報でなんかある筈が無いので、「いよいよ来たか」と落ち着いて受けとめている。 振り返れば、昨年10月の手術以降、意欲的にかなり動き廻つた。土浦、敷島、糸魚川、猪苗代などの他、県内各地を含め、マスターズ絡みと私的な「遊び」など、健康な人以上の行動であったかも知れないので、満足すべき所であろう。 体重48キロまで戻ったのに、手術後は44キロに落ちたまま変わらない。体力の無いことは正に病人だ。 私はあまり本は読まない。眼のせいにしている。大学時代に栄養失調から白内障になりかかって以来だ。それが他人に読んで貰う為に、書いたものを残すというのも、自分勝手なことかなと思うものの、身内や友人の範囲と甘えさせて戴くことにした。 まだまだ言いたい事、聞かせたい事、思い出すことなど、一杯有るのだけれど、第二集を出せるとは考えられない。これが「本」となって周りの人々に渡す事が出来れば、もうそれで満足だ。 歳をとってから、小人閑居する間も無い年月を過ごし、一方では、若い頃に考えていた事でも、遣り残したものがあって、一寸残念であるが、思いもしない「スキーにいがた」や、晩年になってからの「スキーマスターズ」等という、大きい仕事が出来たので、[大いなる満足]と、自分を[誉めてやっても良い]かな、という感傷に浸っている。さして「名声」を残す程でもなく、ましてや「金銀財宝」を残す事も出来ず、しかし、常に「遣りたいことを遣り続け」て来た日々の暮らしは、それを支えてくれた妻の力に負う所が大きい。人生の纏めとして、改めて感謝したい。 自然の美しさを感じ、生きている楽しさの中で、今日一日、又今日一日と過ごす時間の尊さが、今この時にわかるものなのかと有り難く受けとめ、精一杯、新鮮な空気を充分吸い込んで、これからの時間を、落ち着いて過ごしたい。