近代スキーのパイオニア
燕温泉の藤巻文司氏

大正 5 年 9 月15日生
平成14年 9 月24日逝去(享年87才)
中頸城郡妙高村燕温泉 旅館「花文」経営
略  歴
昭和15年 指導員検定合格、本県初の指導員となる。第7回、第10回、第11回国体壮年組大回転優勝。SAJ技術員、一般スキー委員会普及部長として「スキー教程」作成に貢献、県連アルペン強化委員、新潟県指導員会々長として本県基礎スキー界の育ての親でもある。昭和36年民間スキー指導者として初の渡欧。オーストリースキー技術の権威クルッケンハウザー教授と親交を深め、教授の来日を実現させる。昭和35年「ウェーデルンへの道ー初心者のためにー」(朋文堂)出版。昭和37年「シーハイル」(玉川大学)出版。
燕温泉スキー場リフト建設。信越索道協会々長、燕温泉組合長、妙高村観光協会長、環境衛生同業組合理事、新潟県旅館組合理事等を歴任、昭和34年9月〜38年9月妙高村議会議員として地方行政にも貢献。
財団法人新潟県スキー連盟参与。日本スキー指導員協会顧問。

藤巻文司先生 追悼の言葉
     新潟県スキー連盟参与        
           燕温泉組合長           宮沢一英
   
 スキー界の巨星が落ちたという感じがして、誠に残念でたまりません。藤巻先生を語る上で、スキーに関するご活躍を抜きにしては語れないほど、スキー界に貢献された偉大な方でした。  雪深い燕温泉に生をうけられ、山スキーの草分けとして尽力され、スキー技術の素晴らしさは、国民体育大会冬季大会壮年の部で三連勝を飾り新潟県スキー界に大きく寄与されました。そしてオーストリア、サンアントン、サンクリフトへスキー技術指導を学びに留学されて、後進を御指導くださいました。今日私どもがスキーを楽しみ、生涯スポーツとして体育増進に努めているのも先生のおかげと深く感謝しております。  また、忘れてはならないことがあります。昭和37年11月玉川大学より出版された戦後初めてのスキー専門誌「シーハイル」は近代オーストリアスキーを世に発表した、最初の参考書です。藤巻先生ご自身で主筆し、スキー技術の写真のモデルまでなさいました。神田の古い旅館で宿泊をして執筆しておられたお姿が昨日のことのように思い出されます。  近代オーストリアスキー技術の権威者、ルデーマット先生、クルッケンハウザー教授、ポプヒラー教授を始め多くの指導者が来日されました。その際の実行委員のメンバーとして、私たち若いインストラクターを選出して各スキー場を回り普及伝達と活躍されました。その時のノイマイル氏、シュワツヱンバッハ氏、藤巻先生3人によるウェ一デルンのトレーンの勇姿は今でも忘れる事が出来ません。  このように藤巻先生は(財)全日本スキー連盟の基礎スキー発展の先駆者として尽力なされました功績は誠に甚大なものがあります。末永くスキー界に引き継がれていくことでしょう。  また、燕温泉スキーリフトの建設をなされました。そして新潟地方索道協会信越部会長、妙高村村議会議員、妙高村観光協会長など重責をになわれ、地域発展に寄与されました。さまざまな組織の発展の陰に藤巻先生のお力があったことは忘れません。  大変ご苦労様でした。安らかにお眠りください。
追悼のことば          
      (財)全日本スキー連盟 教育本部アドバイザー              坂 東 克 彦
 私の所属する新潟スキークラブは、燕温泉スキー場をホームゲレンデとし毎年1月半ばに3泊4日の講習会を燕で行っていましたが、その常宿が「花文」でした。私は指導員を目指して新潟スキークラブに入り、昭和50年ころから「燕通い」を始めました。  藤巻さんはすでに現役を引退されており、直接、雪上で教えを受けたことは無かったのですが、ロビーでお聞きするスキー談義は、いつも楽しいものでした。「猪谷六合雄さんと三浦敬三さんが議論を始めると、どちらも絶対に譲らない。くたびれ果て、2人とも眠ってしまうが、夜中に一人が立ち上がると直ぐもう一人も立ち上がり、また続きが始まる」などなど。これを聞いて私は、恐ら<もう一人、藤巻文司がそこに加わっていたのではないかと思っていました。  クラブの長老から、「谷にスキーを流すと、藤巻少年が燕のように身をひるがえして突っ込んで行き、拾ってきてくれた」とか、「藤巻さんがジャンプウェーデルンをすると、身体は、後ろ向きに斜面を上がって行った」という伝説も聞いていました。  スキーに情熱を傾けた藤巻さんは、昭和17年3月、三浦敬三さん、次井晨さんらとともに野沢温泉スキー場での第2回指導員検定会で合格その後、基礎スキーの分野で、全日本スキー連盟一般スキー委員会普及部長としてスキーテキストの編集・執筆に携わり、常に第一線で後輩の指導に当たってこられました。そして、昭和27.8年頃から58年までの長期間、県指導委員会々長を務め、県のスキー界にも多大の貢献をなさいました。  競技の分野でも藤巻さんは、昭和27、30、31年の国体大回転壮年組で優勝 を果たしています。2年連続の優勝の記録は不滅のものです。  昭和35年12月には、「ウェーデルンへの道ー初心者のためにー」(朋文堂)を著します。そして、翌36年、単身オーストリーに渡り、国立スキー学校のクルッケンハウザー教授のもとで修行し、教授との親交を深められました。  帰国後本場の技術を日本に紹介するため、玉川大学小原哲郎学長、法政大学福岡孝行教授らとともに、クルッケンハウザー教授の来日を実現させ、オーストリースキーの講習会を日本各地で開催しました。この講習会に参加した若者から後日、日本のスキー界を担う多くの人材が輩出していったのです。藤巻さんが教授らを日本に招請するための費用に当てるために福岡教授らと書いたのが名著「シー・ハイル」(玉川大学出版部 昭37・11)でした。「シー・ハイル」はその後3巻まで出され、「ポケット シー・ハイル」も出版されています。 「究極のスキー技術はひとつ」。これが藤巻さんの持論でした。花文のロビーで自らコーヒーを入れながら、「レーサーはスピードを追求し、一般スキーヤーは安全なスキーを考えなければならない。その違いはあっても、滑るための技術に違いはない」、「オリンピックやワ一ルドカップに勝つ選手にオーストリー、フランスの違いがありますか」、「スキー技術の本質は、パインシュビールにある」、「新しい技術、革新的技術などあろうはずはない。進歩するのはその指導法である・‥」。語りだしたら止まりません。そして最後は「また、俺、余計なこと言っちゃった」で終わりになります。  私はいま、様々なスキー事故裁判に関わっていますが、藤巻さんに「スキー事故を見るときには、まずそのスキーヤーがどんな滑りをしていたかを考えなければならない」と言われたことを念頭において対処しています。  多くのことを藤巻さんに教わりました。日本の近代スキーのパイオニアとして果たされた藤巻さんの功績は偉大です。  藤巻さん。やがてまたシーズンが巡ってまいります。美しい妙高山の懐に抱かれて、どうぞ安らかにお眠り下さい。オー シー ハイル!
追 悼 の 言 葉
新潟県スキー連盟参与    池の平温泉 畑 山  匡
恩人の人柄に触れて
 貴方が亡くなられてから1年が過ぎてしまいました。今でも温かい笑顔で迎えて 下さり、どこかでお会いするのではないかとの思いが、ふと脳裏をよぎるのです。  私たちの心の中まで優しい思いで包んで下さるからだと思います。  貴方が発病されたときご家族の的確な判断とリレーで一命を取り留めたお話をお 聞きしたことがあります。まるで映画の一独楽を彷彿とさせる情景に出合ったよう でした。それから不死鳥のように少しも変わらないお元気な姿に接し、反対に私の ことを気使い続けて下さいました。選手時代からお世話になって半世紀を超えます。  以下、思い出を含めてご教示項いた事柄に触れて見たいと思います。
役員として(競技関係)
 アルペン監督として戦後のスキー連盟を支え、後輩の強化育成に尽くされました。 ご自身国体の監督と選手を兼ねて壮年組に出場し、第7回小樽、第10回姫川、第11 回大鰐と3回も優勝されています。  私も教員組で出場しておりましたが、忘れもしない旭川国体で部屋をご一緒した とき、試合前で緊張してガチガチになっていたのを見て、赤々と燃えるストープの 傍で喉が渇いている風呂上がりのビールの旨さと共にリラックスしてレースに臨む ことを教えて頂きました。その後、ビールの味が忘れられなくなっています。 基礎スキー役員  県連理事として昭和25年より39年まで貢献される一方、スキー技術を高く評 価されてSAJ基礎技術委員会に抜擢され、検定基準の作成、テキスト編集作成に 従事し今日の教程の基礎を築かれました。  
バイオニア リーダーとして
 昭和39年民間スキー指導者として初めてヨーロッパヘ出向き、スキー研究に 専念されました。 オーストリー国立スキー学校名誉会員になられ、クルッケンハ ウザー氏との出会いもあり、ハウザー氏の来日にも大変苦労されました。  「新潟県基礎教育スキー指導委員会」会長として昭和40〜50年基礎スキー界の発展に努力されました。 燕温泉スキー場産みの親でもありました。リフトの運転を31年12月28日 開始にこぎつけられました。 同会社の社長としてスキー場の発展につとめ、地元 の観光行政にも熱心に参画し活性化に尽力されました。  
スキー研究
 環境のせいもあり春休みになるとスキーキチが家にたむろして夜になると議論に 花を咲かせる仲間に入って、本格的にスキーに取り組むようになりました。その中 でも東大の医学部、工学部のスキー同好会(アザラシ グループ)があり、シュナ イダー来日以前に文献を手にし勉強していたそうです。 既にその時逆捻りのパラ レルスキーらしきものに挑戦していたのです。1930年、池の平で講習会がある と言うので仲間と見学に出かけました。実際にシュナイダーの制動主体のシュテム ボーゲン・シュテムクリスチヤニア技術にしても順の方向への無理のない回り方を 模範滑走と言う形で演技されたそうです。その華麗で軽やかなカービングを見て 「さすが」、「うまいJと実感し大きな刺激を受けられました。シュナイダーとの 出合いは小学生であった藤巻さんのスキー研究の原点となりました。  そんな関係で当時の東大の「アザラシグループ」や福岡孝純先生との交流からオ ーストリースキー研究への遠因になっています。 SAJの技術委員以前の戦時中か ら既にウエーデルンの研究を始めたのはこのような交流があったからです。  日本国内では一一戦前′30ハンネス シュナイダーの来日によってアールベル グ スキー術が広く普及していました。パインシュピール テクニックから洗練さ れたウエーデルンヘと進展して行くのです。スキー界も多様化し技術の進歩も著 しい現状を見ると深い感動を覚えます。多くの先輩、名優の足跡を偲ぶとき胸が熱 くなる思いがします。  どうか、私たちの行先を見守り指導下さるようお願いして追悼の言葉とします。                                        合掌  
(藤巻 文司 氏の著書を紹介します。)   
スキー著書に「ウエデルンヘの道j −一藤巻文司、     
共著に「シーハイル」福岡孝行、藤巻文司 (実技も含む)  
    「スキー技術と練習法」 福岡孝行、藤巻文司
    「アルバム オーストリア スキー」 福岡孝行、藤巻文司