飛躍への道のり
戦後の県スキー連盟
 終戦直後の12月1日、湯沢温泉に於て、県スキー連盟再建協議会が開かれた。従来の役人役員を廃し、真の意味の連盟を創立、会長保科武雄、副会長広川利兵衛・石浜文郷、理事長滝沢一雄、技術委員長上石巌を選んだ。そして下部組織として、上越・中越・下越の地区スキー連盟が誕生した。
昭 和 2 1 年 
 新選挙法による衆議院議員総選挙が行われ、日本は新しい道を歩き始めた。極東軍事裁判が東京市ケ谷で開廷し、戦争犯罪の責任の追求が行われていた。 皮肉なことに雪の多い冬であったが、輸送、食糧事情は戦争中にもまして悪くなっていたし、スキー場も旅館もアメリカ軍に占領され、一般人は入れないという状態であった。
3・2〜3  第1回北海道スキー選手権大会
        戦後最初の公式競技会であった。さすがに北海道と言うベきか。
3・10  蔵王滑降競技会
3・10  社会体育スキー指導者講習会(小千谷)
3・16  厚木飛行場の米進駐軍、湯沢布場スキー場でスキー大会
3・24  赤倉スキー場で第2回日米親善スキー大会、70余名の米兵が参加
10・17     SAJ初の代表委員会、会長に小島三郎を選出、その他役員か決定し、復興の歩みが始まった。
11・1〜3  第1回国民体育大会
11・   札幌藻岩山に進駐軍用のリフトが建設される。
12・24  テオドル・フォン・レルヒ氏逝去
昭 和 2 2 年
 教育基本法・学校教育法施行され、6・3制が始まった。日本国憲法か施行され、名実共に民主日本として生まれ変ったことになる。初の民選知事に岡田正平か当選した。 この年も大雪に見まわれ早くからスキー可能となったが、世相はスキーとはいまだにかけはなれたものであった。致命的だったのは、輸送状態が一向に好転しないことであった。 全日本スキー連盟でも戦後初の全日本選手権を国体と兼ねて開催すべく着々と準備をすすめ、2月10・11日、野沢温泉と決定したが、こんな輸送状態では選手を集められない。止むなくもう一年待つより外に手がなかった。インカレなら集まる人数も少ないし、スキー復興の北海道ならなんとかなるということで、強行された。
1・17〜19  第20回インカレ(小樽)
1・25〜26  県下一般・中等学校スキー選手権大会、4年ぶりに小千谷山本山で開催、大回転に小島弘平優勝
3・2        新潟日報主催第1回妙高山新複合スキー選手権大会 185人が参加、成年星野実、少年久保強、女子畑山幸子が優勝
3・17〜18  北日本スキー大会(野沢)
        全日本が中止され、各地方ブロックごとに大会を持った。後に言う「まぼろし国体」である。
3・   中里スキー協会創設(会長常楽彦誠)
3・   指導員検定講習会(越後湯沢)
12・25  蒲鉄スキークラブ創設(会長高地 覺)
 この年の1月、樺太から上石巌が帰って来た。引揚者といえばむろん着のみ着のままだが、彼は一台のスキーを携えてきた。一枚でも余計の肌着を、―握りでも多く食糧をと望むのが、ぎりぎりの人間の姿である。それらを犠牲にして、あえてスキーを持ち帰ってきた。いかにもスキーに徹しきった上石らしい姿である。
昭 和 2 3 年
 元旦、二重橋が開放され一般参賀が許可された。新制高校が発足したり、古橋広之進が6つの世界新記録を樹立するなど、明るいニュースばかりではなかった。戦争の傷跡がまだ残っており、名立海岸で漂着機雷ヵ爆発、学童63人が死亡という事件もあった。
 待つこと久しかった全日本選手権がいよいよ復活した。FIS復帰運動もおこされた。
2・21  初の冬季県下レクリェーション大会
     小千谷山本山で開催、県下各地から8000人が参加
3・11〜14  第26回全日本スキー選手権大会兼第3回国民体育大会冬季大会(野沢温泉)
     笹川和郎少年新複合、小林芳久壮年複合に優勝
 選手権大会は昭和18年の日光大会以来の開催で、結局4回も休止したことになる。久しぶりのこの大会を喜び、実参加人員 739名(内女子56名)であったが、食糧は厳重な統制下にあったので、役員選手すベて主食持参であった。 新複合少年組に出場した久保強・茂原博太郎は好走して1・2位を占めたが、新制の中学生であったため、文部省令に触れ、某選手団からクレームがつき、失格となった。
12・20  草津に日本人用スキーリフト第1号が建設
昭 和 2 4 年
 下山事件・三鷹事件・松川事件と不可解な事件が連続して起こった年であるが、湯川秀樹のノーベル賞受賞と、フジヤマのトビウオ古橋の全米水上での活躍に、日本中か湧いた。
1・22〜23  第22回全日本学生スキー選手権大会ノルディック(小千谷)
1・25〜26  同 アルペン(湯沢)
3・3〜6  第4回国体スキー大会兼第27回全日本選手権大会(札幌)
        新複合少年組に内田勝、壮年組に田村清が優勝している。
3・27〜4・2 全日本強化合宿(日光)
      上石・増田両氏コーチ、宮尾・田子・茂原各選手参加
 下越協議会が主催し、毎年実施している下越スキー選手権大会は、平成11年に50回を数え、記念式典が盛大に挙行された。地域的に少雪のためやむなく中止した年もあるが、その時の回数の扱いが定かではない。昭和24年の冬鳥越大会が第2回大会であったらしい。当時下越のスキー場は津川と冬鳥越の2つしかなく、交互に実施されていた。
7・19〜24  オリンピック・アルペン合宿(涸沢)
9・5  磐梯朝日国立公園指定
9・7  上信越高原国立公園指定
 スキー民泊の発祥地といわれる石打地区では、冬の副業としてのスキー場開発が計画され、関山地区を中心にして、昭和24年5月頃から、隣組長会議が数回もたれた後、11月に石打丸山スキークラブとして発足した。経費は関山区から5千円、石打村から1万円、その他は寄附金でまかなわれた。貸しスキー30台を買い入れ、役員は無料奉仕で 300枚の葉書に案内文を印刷して、東京方面の学校・官庁に発送したり、ガリ版刷りの宣伝案内文を作ったりしたという。当時区長であり、役員でもあった阿部啓十郎氏はメモにこう書き残している。「私財を投げた大賭博、判定の時が来た。前夜から一睡もしないで、家内と仏檀に燈明をあげて成功を祈った。朝6時ころ、現在の協会事務所で、私ひとりで待ちうけた。長い長い時間であったが、提灯を先頭に―人、二人、三人とスキー客が見えたときは男泣きした」ちなみにこの時の丸山スキー場へのスキーヤーは25名であった。昭和25年度の季節旅館4軒、食堂1軒、この年のスキー客は6000人であった。
昭 和 2 5 年
 朝鮮戦争か勃発。国連安保理事会は北朝鮮の行動を、侵略行為であると決議、アメリカを主体とする国連軍の派兵をおこなった。 国内ではインフレの進行とともに千円札が発行され、警察予備隊が発足した。
1・28〜29  後楽園ジャンプ・回転大会
      笹川和郎・畑山幸子優勝
2・4  第4回全日本妙高山新複合スキー大会(赤倉)
      妙高中の新井昇吾の優勝が光る。
3・2〜5    第5回国体スキー大会兼第28回全日本選手権  ノルディック(米沢)、アルペン(五色温泉)
           この大会で始めて光電管応用の計時装置が使用された。新複合少年組に板倉喜一、壮年組に次井晨が優勝している。
3・10     中越スキー連盟、新鉄局、新潟日報共催第1回湯沢・小千谷66キロスキー駅伝競走 湯沢チーム優勝
3・21  県体協主催守門滑降スキー選手権 団体栃尾優勝
3・   赤倉チャンピオンスキー場開設
            朝日新聞社主催第1回アルペンスキー大会開催のため前山三角点〜地獄谷〜タライマワシ〜臼落し〜丸山回転バーンと下る全長3200mの日本最高級のアルペンコースとして誕生
5・21  全日本スキー連盟の役員は、ブロック代表による選考制となる。
    保科・上石・増田・若尾・次井・石浜文郷・広川利兵衛氏ら役員となる。
10・16     赤倉国際スキー場にリフト設備完成、新潟県観光施設株式会社創設。赤倉リフト(1300m)、池の平リフト(947m)
10・16     湯沢観光施設 湯沢リフト(166m)架設、26年1月より運転開始
  湯沢の第1号リフトは、38〜39°位の急勾配でその横に開かれたゲレンデも同様の急勾配であった。村会議長の高橋氏に、これではとても採算のとれるほどの利用者は見込めないのではないかと質問したところ、これは初心者のスキーヤーを大勢つれてくるリーダー用として架設するものであるから、多少の損失があっても村全体としては大いにプラスになるだろうという回答であった。しかし、いざ出来上ってみると相当数の人が滑降できず、そのまま下りにも乗って降りてしまい、2度と乗らなかったので、年々利用者はへり、とても維持することができなくなって、数年後には廃止されてしまった。
11・6     国鉄、土樽スキー場に日本初めてのナイター設備をつくる。土樽スキー協会創設(会長高波吾策)
  この年関温泉スキー場を拡張、神奈山尾根筋に、幅15m長さ 800mのスカイラインコースを開設した。
昭 和 2 6 年
 マッカーサーが解任され、朝鮮戦争の休戦会談が始まった。サンフランシスコ講和条約・日米安全保障条約が調印され、日米間の友好が確立された。民間ラジオ放送が始まり、人々は茶の間で娯楽を楽しみ、また国鉄では臨時列車による団体募集も始まり、旅行も戦前のように楽しまれるものになってきた。
l・15  県営シャンツェ竣工式(金谷山)
1・21  新井船岡山シャンツェ開き
2・1  花岡スキー協会創設(会長星野菊太郎)
2・24     新潟日報主催第1回全日本スキージャンプ大会(小千谷山本山)
2・28〜  第6回国体スキー大会兼第29回全日本選手権大会
     ノルデック(高田)暖冬異変のため、全種目中止
     アルペン(赤倉)回転少年組に新井昇吾優勝
   第6回国体高田大会の開会式は高松宮殿下をお迎えして華々しく挙行されたが、快晴南風気温13.5℃と無気味なくらい暖かかった。しかし妙高からトラックで雪を運んで整備されたコースは万全で翌日からの競技には心配なかった。ところがこの南東の風が夕方になるにつれ次第に強くなり、夜半には雨も伴って風速12mという嵐になった。朝まて吹きまくり降りしきったため、金谷中学の会場は昨日まで30cmあった雪が一夜にしてとけて水田となり、天幕も標識も全部吹き飛ばされてしまった。それだけではない、金谷山の 650万円かけて竣工した「県営高田ジャンプ台」も、着陸斜面の盛土が、大音響とともに崩壊した。もちろん金谷山―帯の雪はすっかり消え失せ、この光景を見た選手も役員も茫然とたたずみただ長歎するのみだった。
3・11           苗場山10キロ大滑降スキー競技大会再開第1回  伝統あるこの大会の再開を望む声が高まり、県教育委員会の支援と新潟日報社の協力を得て復活した。その後25回まで実施され中止となった。
4・1  高田スキー博物館 開設
4・27  全日本スキー連盟、FIS加盟復帰を承認される。
11・      石打MHスキークラブ創設(会長上村安は病気めため直ちに辞任、片山秀男会長となる。)
   石打丸山スキー協会・花岡スキー協会の行政的組織はあったが、スキー技術の研究振興等不十分な点をおぎなうため、村内のスキー愛好者を結集して、クラブの設立を見た。MHは丸山・花岡の頭文字をとって両協会長・公民館長・村会議長・小中学校長を顧問に迎えた
12・   弥彦山麓スキー場開設(42年3月まで)
昭 和 2 7 年 
 朝鮮戦争終結による“動乱ブーム”の反動によって、経済不況はその度合いを深めていったとはいえ、日本の復興はまぎれもないものとなり、世情は一変した。女性はアメリカから来たナイロンによって、ファッションを変えて行った。上越線上野・長岡間の電化か完成し、ラジオ新潟が放送を開始した。 この年から、日本選手権と国体とを別個に開くことにした。
1・26        県教委、高体連共催第1回県下高校対抗スキー大会(小千谷、湯沢)14校が参加して盛会、男子新井高、女子小千谷高が優勝
2・12  刈羽、安田スキー場開設
2・14  第1回全国高校スキー大会(大穴)
      小千谷高が女子で優勝
2・15〜25  第6回冬季オリンピック(オスロ)
         猪谷千春 大回転20位・滑降24位・回転11位と健闘、藤沢良一 複合14位、山本謙― 18Km22位
2・17  第1回北信越ジャンプスキー選手権(金谷山)
     一般小島大助、少年松橋雄司優勝
2・28〜3・3 第30回全日本選手権(札幌)
3・5〜9  第7回国体スキー大会(小樽)
        大回転壮年組藤巻文司、10Km青年組宮尾辰男、女子4Km後藤美智恵、回転少年組新井昇吾 優勝
3・   高田自衛隊スキー部創設、初代監督阿部周平
昭 和 2 8 年 
 NHK東京テレビの本放送が開始され、東京近辺の街頭は、スポーツ中継を見ようとする多数の人で埋まった。この頃から中学生の修学旅行は京京方面になっていったが、テレビも人気の一つであった。 日本選手権と国体を分離して行うことは理想的であるが、いろいろな困難が伴う。本年は種々検討の結果、同じ日時、同じ会場で開催するが、種目は分離して行うことにした。
1・3     湯沢城平スキー場でリフト滑車がはずれ逆走、死者2人を出した。
1・19  小出向山スキー場でシャンツェ開き
2・18〜22  第31回日本選手権大会アルペン(大湯)
     滑降に茂原博太郎優勝
2・18〜22  第8回国体スキー大会(大館大湯)
     女子4Kmに横山良子、複合少年組平山友実 優勝
 新井高平山友実のジャンプは、オリンピック選手の話を聞いて覚えたというノルウェー型を示して役員を驚かせた。 女子4Kmは全般的に型にとらわれて、腕にも体にも力がない選手が多い中で、横山嬢は立派なパスカングで全コースを走破した。
2・24     浦佐堂平スキー場で五箇小児童45人がスキー練習中ナダレ発生、2人が圧死した。
3・   石打大和スキー場開設
4・1  下田スキークラブ創設(会長熊倉政衛)
10・   岩原に2人乗りロマンスリフト完成
12・6     FIS派遣の上石厳トレーナーと茂原博太郎選手の壮行会(高田城南中)
12・   石打花岡観光協会設立。
昭 和 2 9 年 
 第2次世界大戦後の9年間にわたって、世界のどこかで止むことのなかった銃声がおさまり一応世界平和が実現したが、ビキニ環礁においてアメリカの水爆実験が行われ、第5福竜丸は死の灰をあびた。青函連絡船洞爺丸が台風15号により転覆1011人の死者という惨事があった。保安庁は防衛庁と改められ、陸上・海上・航空の自衛隊が発足した。市町村合併促進法によって県下の市町村の合併がさかんに行われ、小千谷・加茂・十日町・燕・見附・栃尾・直江津・糸魚川・新井・五泉・両津に市制がしかれるようになった。 フランスからピエール・ギョーとアンリ・オレイエの両氏が、SAJの招聘により来日。志賀高原・赤倉・湯沢・大穴・日光・神鍋・蔵王大館・札幌・小樽で鮮かな技術を公開、実地指導を行った。スキーをパラレルに揃えたまま操作するフランススキー術に驚異の目を見張り、ローテーションやリュアードが―時期日本スキー界の話題となった。
2・7  赤倉でオレイエ選手の講習会
2・13〜2l  FIS(ファルン)ノルデック
2・27〜3・7 FISアルペン(オレ)
     茂原博太郎回転21位、大回転40位、滑降41位
2・18〜22  第32回全日本選手権大会
        ノルデック(高田) 15Km松橋高司、女子6Km横山良子40Km宮尾辰男優勝
     アルペン(赤倉)
2・24〜28  第9回国体スキー大会(野沢)
              この年から教員組が設けられたが、大回転で畑山匡2位、15Kmで庭野昭―1位となっている。女子4Kmでは1位横山妙子、2位後藤美智恵、4位横山良子、6位山川トメ子と本県勢の圧勝であった。
8・2  第1回妙高登山競技開催
             田口〜妙高〜池の平〜妙高山〜燕〜関〜赤倉〜田口間総延長26キロを県連の距離競技力向上を図るため開催された。以後4年間存続されたが妙高高原一周マラソン大会に変つた。
12・1  現三条スキークラブ創立(会長福井節三)
12・27  石打丸山第1リフト1号線運転開始
12・27  関温泉神奈第1リフト新設
     池の平スキークラブ創設(会長横山隆策)
昭 和 3 0 年 
岡田3選阻止のムードに乗って県知事選に北村一男が当選した。新潟大火がおこり、森永粉ミルク中毒事件や、国鉄宇高連絡船紫雲丸が第3宇高丸と衝突して沈没するなどの事件が、世間に話題をまいた。 妙高高原前山に1300mのスキーリフト完成、標高1000m以上のスキー場は日本で初めてのことであった。
2・10  国体スキー県予選で、リレーに中電工が8連勝
2・20     第4回全国高校スキー大会(秋田県湯沢)で高田北城高女子総合優勝。
2・25〜3・1 第33回全日本選手権大会ノルデック(札幌)
         15Km女子リレーは高田全北城高(山川トメ子・横山妙子・横山良子)優勝
3・3〜7  第10回国体スキー大会(旭川)
           大回転 壮年組藤巻文司、15Km青年組宮尾辰男 優勝、高校継走(丸山祐二・荒井 享・宮下 威・五十嵐正夫・後藤章雄)初優勝
4・1  燕スキークラブ創設(会長斎藤新一)
12・27  土樽リフト 運転開始
12・28  布場リフト 運転開始
昭 和 3 1 年 
 弥彦神社初参りで 124人圧死という悲惨な事件で明けたこの年の7月、経済白書は「もはや戦後ではない」と誇らかに宣言した。人々の生活は―応の安定を見て、個人消費は「食」の段階から「住」の段階へ進み、テレビ(白黒)、洗濯機、冷蔵庫など家電機器が「三種の神器」とよばれて、“消費ブーム”を迎えた。 第7回冬季オリンピック(コルチナ・ダンペッツオ)のスキー回転競技で、猪谷千春が2位に入賞し、日本のスキー史に黄金のページを綴った。
1・12     新潟陸運局、老朽化した池の平スキーリフトに対し県下初の運転停止の業務命令
1・26〜2・5         第7回冬季オリンピック(コルチナ・ダンペッツオ) 宮尾辰男 15Km48位 30Km28位 50Km25位、猪谷千春 回転2位 大回転11位、吉沢広司 ジャンプ13位
2・11     山形県米沢市で開かれた全国高校スキー大会で、高田北城高総合優勝
2・17〜21  第34回全日本選手権大会
              ノルデック(大館)滑降(五の宮)大回転(花輪)回転(大湯)と4会場で開催。女子8Kmで横山良子、女子15Kmリレーに高田全北城優勝。回転で茂原博太郎、法大園部勝と同タィムで優勝を分けた。
2・23〜27  第11回国体スキー大会(大鰐)
        女子6Km横山良子、15Km教員池田茂、大回転壮年藤巻文司、少年大出秀水が優勝した。
7・10  妙高・戸隠地区を上信越国立公園に追加
9・   直江津スキークラブ創設(会長石原潤治)
        各クラブの連合体で、当初直江津スキー連盟として申請したが、クラブに指導された。クラブ新聞第1号を発刊
12・28  燕温泉リフト 運転開始
12・28  シャトー塩沢一本杉リフト運転開始
塩沢スキー協会設立(林正計)
昭 和 3 2 年 
 ソ連が人工衛星スプートニク第1号打ち上げに成功して、宇宙開発時代を迎えた。日本の南極予備観測隊は、オングル島に上陸して「昭和基地」と命名した。 従来のスキー場とは「雪の降る温泉地」であるという概念が 「広く変化に富んだコースを提供しうる場所で、近代的なホ テルのあるところ」という概念に、次第に変っていった。
1・13  第7回湯沢―長岡間スキー駅伝競走大会
    日曹チームが優勝
2・7〜10  第6回全国高校スキー大会(飯山)
     女子総合で高田北城高連続優勝
2・14〜18  第12回国体スキー大会(神鍋)
        距離成年男子松橋高司、女子横山良子、女子リレーに優勝
2・23〜27  第35回全日本選手権ノルデック(野沢)
        15Km宮尾辰男、50Km松橋高司,女子横山良子、継走 風間スキー優勝
3・21     第1回白髭山滑降大会を津川スキークラブ主催、下越スキー連盟・新潟日報後援で開催する。
4・15  カザマスキー製作所 工場・倉庫・住宅など焼失
10・20  浅貝スキー協会創設(会長高野厳)
11・10  鹿瀬スキークラブ創設(会長渡辺文丸)
     石打後楽園スキー場開設
昭 和 3 3 年 
 東京タワーが完成し、一万円札が発行された。新潟飛行場が米軍から返還され、全日空が新潟東京間定期航路を開設した。NHK新潟・ラジオ新潟がテレビ放送を開始した。
 昭和33年春、東蒲原郡内の実川水系スキーク・三川鉱山スキー部・昭電スキー部・国鉄磐越スキー部・津川高校スキー部・鹿瀬スキーク・津川スキークの7団体が集り東蒲スキー連盟を結成し、下越スキー連盟に加盟、毎年東蒲スキー選手権大会を開催したり、中越連盟から増田真一氏・岸野力雄氏を招いて講習会バッジテストを実施する等、極めて意気盛んであった。その当時2〜3年間は、下越スキー連盟の事務局が鹿瀬町役場内に置かれ、鹿瀬スキークが担当していた。
1・14     新鉄局、上信越地方少雪のため予定していたスキー臨時列車9本を運休、同局開局以来の異変
1・15〜17  第3回中部日本学生スキー選手権大会(池の平)
     新大が2度目の優勝
2・20〜24  第36回全日本選手権ノルデック(小樽)
     15Km 北村辰夫 女子横山良子優勝
2・27〜3・2 第13回国体スキー大会(札幌)
4・14  弥彦観光ロープウェイ運転開始
5・25  国体スキー大会、36年に新潟県開催と決定
12・1         熊堂スキー場開設。宏昌開発熊堂スキー場としてオープン、同時にナイター施設も設備し大変な人気を得た。
12・1  弥彦山頂スキー場開設(50・3・31閉場)
12・20  八箇峠リフト運転開始
12・25  浦佐第1リフト運転開始
昭 和 3 4 年 
 皇太子殿下と正田美智子さんのご成婚を機に、テレビは急速に普及し始め、多くの週刊紙が発刊され、マスコミ時代を迎えた。 トニーザイラーが来日し、映画「黒い稲妻」の中の黒いスノーウェアを身につけた彼の姿に魅せられた若者達によって、スキーの大衆化がすすめられ、スキーウェアのファッション化が始まった。
1・3     妙高高原に2万2千人のスキー客、空前のスキーブーム到来を思わせる。
1・9  長岡悠久山リフト連転開始
1・18     湯沢〜長岡間スキー駅伝競走10周年記念大会 日曹チームが3連勝
1・24 赤倉熊堂スキー場開設
2・12  第8回全国高校スキー大会(新井市)
         全国から190校、734人参加、男子新井高3位、女子高田北城高3位
2・13〜17  第37回全日本選手権ノルデック(大鰐)
          15Km松稿高司、50Km宮尾辰男、女子横山妙子、複合田畑日出男、継走風間スキー優勝
2・21〜24  第14回国体ズキー大会(米沢・蔵王)
         距雛 壮年加藤正英、成年松橋高司、女子横山妙子、継走の一般男子・女子優勝
3・7〜8  宮様スキー大会第30回国際競技会(札幌)
         世界超一流の北欧6選手を迎えて 開催、15Kmで松橋高司 3位は日本選手中最高
12・1  池の平三ツ山スキー場開設
12・19  中里第1リフトA線運転開始
12・23  湯沢温泉ロープウェイ運転開始
12・24  岩原でザイラー妙技を被露
12・      浅貝スキー場開設(37年に苗場スキー場に売却、現浅貝スキー場は、36年12月オープン)
12・    加茂猿毛岳スキー場開設
昭 和 3 5 年 
 新安保条約の成立をめぐって国会は混乱し、周辺はデモ隊に取り囲まれた。全学連デモ隊が国会構内に乱入して、警官隊と衝突、 510人負傷、東大生樺美智子が死亡した。岸首相に変った池田内閣は所得倍増計画を発表、産業界は設備投資に力を入れ、GNP大国へ走り始めた。
2・11〜15  第38回全日本選手権ノルデック(高田)
     男子15Km北村辰夫、継走中電工、女子横山光子、継走風間スキー優勝
2・18  第8回冬季オリンピック大会(スクオーバレー)に松橋高司参加
2・19〜22  第15回国体スキー大会(山ノ内)
            距離 壮年郷戸堅一、成年北村辰夫、少年藤井耕造、教員 岡田照男、大回転 少年伊藤敏信、継走 一般男子優勝し、女子総合に優勝した。
2・27〜3・1 全日本選手権のアルペン大会を妙高高原で開催
 この年初めて県高校大会を下越の津川で開催したが、雪不足で悩まされた。40m級のジャンプ台まで県営で新設したが、大会の前夜すっかり雪か消えてジャンプは中止。アルペンは急きょ諏訪峠にコースを設けたが、会場まで登り1時間余、大回転男子優勝が47秒1、コースは実にゆるやかで 400m足らず、男子学校対抗中止.当番校と津川町は、準備の苦労むくわれずガックリ。
4・1  妙高村 妙高スキー協会創設(会長笹川兵吉)
12・3  スキー発祥50周年記念式(日比谷)
     全日本スキー連盟より功労者表彰される。
      特別感謝(7名)
          故秩父宮殿下、高松宮殿下、三笠宮殿下、テオドル・フォン・レルヒ、オラフ・ヘルセット、大倉喜七郎、細川護立
     功労者(27名中 本県関係)
          小島三郎、小川勝次、保科武雄、岩崎三郎、上石厳、故長岡外史、故金井勝三郎、故広田戸七郎、故高橋進、故鶴見宣信、故堀内文治郎、故阿部正量
12・24  大湯温泉リフト運転開始
12・27  金谷山リフト運転開始
昭 和 3 6 年 
 有史以来の好景気の中で、国民の間でレクリェーションや旅行に対する意識が高まり、いわゆるレジャーブームを迎えた。 明治29年以来という豪雪による国鉄マヒもあったが、三国国道が開道して、スキー客は 100万人を突破した。第2室戸台風が、新潟県下で猛威をふるったのもこの年である。
1・12  高田金谷山でレルヒ少佐の銅像除幕式が行われる。
1・21        南魚六日町議会、苗場山―帯に一大スキー場を建設、冬季五輪大会会場に立候補を決定、県を通じて正式に誘致促進に乗り出す。
2・11〜14  第16回国体スキー大会(高田・妙高)
日本スキー発祥50周年記念として盛大に開催。女子新潟県が連続優勝。距離 壮年郷土堅一、成年北村辰夫ともに2連勝、女子小林ヨイ、女子継走優勝
3・3  南魚沼大和村主催第1回浦佐アルペンスキー大会
9・   白根スキークラブ創設(会長佐藤喜八郎)
10・1  村松スキークラブ創設
11・16     レルヒ少佐の娘ヘラ・ホリヤ高田市を訪れ、金谷山のレルヒ少佐の銅像と対面
12・28  南魚湯沢の苗場国際スキー場の開場式が行われる。
12・29     小出スキー場、リフト・ナイター設備完成、開場式が行われる。
12・29  湯沢大峰リフト運転開始
昭 和 3 7 年 
 東京都の人口が1000万人を突破し、堀江青年が大平洋をヨッ卜で横断して世の中をにぎわし、この年コカコーラが売り出された。日産「YS11」1号機が飛んで、奥只見発電所が完工した。
1・7〜14   第6回国際スキー教育会議(イタリー、モンテ・ポンドーネ)日本から会議役員のみ4名参加。
1・10        小出労基署、上越沿線の各スキー場で中学生など年少者をアルバイトに使っている問題を重視し、スキー場関係者に厳重警告
1・12  関見リフト運転開始
1・16〜21  第35回全日本学生スキー選手権大会(大鰐)
 15Km横山久雄、滑降北村哲郎、回転曽慶健一優勝。
1・18  高田市にレルヒ記念シャンツェ完成
1・19  石打大和第3リフト運転開始
2・1〜   第10回県選手権大会
     岡田昭一(中電工)距離3種目に優勝
2・9〜12   第11回全国高校スキー大会が小千谷市にて開催される。
大会を迎えて金倉山に新設された大回転コース
2・      苗場国際スキークラブ創設、初代会長中島渉(後、国土計画スキー部と改称、現コクドスキー部である)
2・22〜25  第17回国体スキー大会(小樽)
         大回転 教員岸野力雄、距離 女子横山光子優勝。女子継走に連続優勝
12・1  熊堂スキークラブ創設(会長大泉製正)
12・25  五日町第1リフト運転開始
12・25  小千谷リフト運転開始
昭 和 3 8 年 
 長岡・三条付近に記録的な集中豪雪があって国鉄マヒ、道路途絶が続いた。ケネディ米大統領暗殺事件や吉展ちゃん誘拐事件が、平和になれた人々を驚かした。海外旅行が自由化され、これを契機に海外旅行者は逐次増加していった。
2・14〜17  第18回国体スキー大会(鳴子)
         距離 成年北村辰夫、継走 一般男子・高校・女子を制覇 女子総合優勝
2・   第1回妙高ライン7Km滑降スキー大会始まる
2・23〜28  第41回全日本選手権ノルデック(札幌)
      15Km北村辰夫、30Km高橋秀蔵、純飛躍江遠要甫優勝
3・2  守門村スキークラブ設立
         当初は須原スキー場の支援団体としての性格が強く、村の有力者がずらりと名を連ねていた。
3・17     上越線石打スキー場でリフトのワイヤーがはずれ、スキーヤー3人が落下、重軽傷を負う。
3・27     スキーの名門、中電工、経営の不振と、選手の引抜きでスキー部を解散
4・7     第1回長岡・栃尾親善東山大滑降競技大会開催。後八方台滑降となり第12回(53年)まで続く。
10・   五日町スキークラブ創設(会長遁所昭次)
10・   妙高国際スキークラブ創設(会長高橋繁雄)
     中条スキークラブ創設(会長須貝隆保)
11・1  亀田スキークラブ創設(会長渡辺義人)
     岩原スキー協会創設(会長牛木新作)
12・11     長岡スキー協会、長岡市議会に公立スキー学校の開設を請願
12・20  北魚守門村須原スキー場、完工式とスキー場開き
12・24  高田市営金谷山シャンツェリフト運転開始
12・   加茂・猿毛岳スキー場にリフト設置運転開始
12・ 五日町スキー場開設
12・26  苗場国際スキー場にロープウェイが完成、開通式挙行
12・7     吉川町スキークラブ創設(会長八木林次郎)。尾神スキー場開設
この頃、県連の距離強化選手、宮尾コーチ以下高橋秀蔵横山光子等と、高田自衛隊スキー部が笹ケ峰で合同合宿を組んでいたが、ある年の合宿を終って帰る時には、積雪が1mもあり、重い荷物もあって大変苦労した。最後の杉の沢スキー場を滑り降りる時に転倒した際、リュックに付けていたナベ・カマドがはずれて、上から下まで一気に転がり、人間より早く到着などという珍事もあった。

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