激動の中の発展
戦前の県スキー連盟
昭 和 7 年 
 第1次上海事変が起こり、中国全土に排日運動が激化し、国内では5・15事件で犬養首相が射殺されるなど、世情不安の年であった。
1・     小千谷船岡山シャンツェ開き、第1回ジャンプ大会開催
2・5〜7    第10回全日本スキー選手権大会兼第6回神宮スキー大会(野沢)
       18km 幼年組 松橋朝―  成年組 宮下義明32kmリレー 中電スキークラブ 優勝
2・10〜13                 第3回冬季オリンピックがレークプラシッドで開催され、日本から監督以下11名の選手が派遣されたが、県関係では、保科武雄・上石厳の2名であった。結果は18キロ  12栗谷川平五郎 15坪川武光 17保科武雄5Oキロ  17上石 厳  18岩崎三郎ジャンプ 8.安達五郎
 レークプラシッドの大会は、現在までの冬季大会の中で最低のものであったことはまちがいない。気象異変で雪不足であったことはしかたないとしても、アメリカ人が冬季競技に対する理解に欠けていたことが最大の原因である。 50キロのスタートは8時と公示され、定刻に会場に行ったが、誰一人としていない。雪をかいていた男の話ではスタートは10時に変更したということで、やむなくいったん合宿に帰ったところ、どうやら翌日に延期らしいという。そのうち急に11時スター卜といってきた。急きょ自動車でかけつけたが、巡査が仁王立ちになっていて、絶対に先へ行かせない。迂回してやっとたどりついた時には、上石の出発5分前という始末で、息をきらしながらスタート・ラインにならんだ。コースの整備も最悪で、岩石や倒木はそのまま放置というありさまだった。
4・3 全日本スキー連盟代表委員会
                  加盟団体は道府県を統轄代表するスキー団体によって構成すること。資格を甲・乙・丙に分ける。全日本学生スキー連盟も加盟団体とする。
年額負坦金は、甲で50円、丙は10円と決定。
12・10  冬鳥越スキー場(現加茂市)開設
妙高高原町スキー神社
 昭和7年殿下スロープに建立、御祭神は 高?神−高い山の竜神・雪・雨の神、 闇?神−谷の神・雨・雪、 少彦名神−温泉の神、 酒井薫命−我国最初のスキー犠牲者、大正元年1月4日富士登山中墜落絶命(高田市小学校訓導)
 昭和16年10月現在の星野公園に移転
 昭和56年2月社殿完成 妙高国体の聖火の採火神事を行う。
昭 和 8 年 
 日本の対中政策は世界の非難をあび、遂に国際連盟の脱退という最悪の事態となった。国内には滝川事件があり、皇太子継宮明仁親王御誕生の年でもある。
 この年池の平カヤバスキー場が開設されている。また、県営シャンツェ建造のため小千谷で猛運動を起こし、翌9年の神宮スキー大会開催地に決定したこともあって、秋、山本山シャンツェが完成した。
1・22     小千谷スキークラブ主催県下中等学校スキー選手権大会(船岡山)
1・29     村松中学、加茂農林共催県下男子中等学校スキー大会(冬鳥越)
2・4     中等学校体育連盟主催第2回県下中等学校スキー大会(金谷山)
2・10〜12  第11回全日本スキー選手権大会(札幌)
                                  第11回全日本選手権大会の50キロ耐久コースは、破天荒のものであった。標高差はなんと 950メートル、一番登りのきついところは16キロ地点から19キロ地点までの3キロの間に 550メートルも登っている。 リーゼンコースを逆に登りかえしていると思えばよい。息も絶え絶えに登り切ると6キロ標高差 700メートルの大滑降、ダウンヒルのコースという、ものすごいものであった。そのコースを誰―人異議も唱えず犠牲者もなく、77名参加中40人が完走した。1位は清水麟一5位に保科、9位に上古志の北村勇吉が入った。
3・5     県小学校体育連盟、小千谷スキークラブ共催県下学童スキー大会(小千谷)小千谷小優勝。
3・   第1回守門岳滑降スキー大会開催
4・21  「スキー生みの親」長岡外史将軍逝去
昭 和 9 年 
 満州国帝政を実施し、溥儀皇帝即位。形は独立国であり、満州を承認した国もあったが、まったく日本の傀儡政権であり、属領というより日本の―部であった。 丹那トンネルが開通し、最初のプロ野球団巨人軍誕生の年でもある。
1.10             南蒲三条スキークラブ創設 三中手塚校長の発案で中学生の心身の鍛錬を目的としたもので、三中・三条女・三条商工・加茂女・加茂小・大崎小・下田小等の校長、大崎村長などで委員を構成している。
1・  加茂スキークラブ創設(会長渡辺市平)
1・  山本山にスキーハウス完成
        スキー選手等の合宿練習を目的として、前年着工したが、ようやく完成
2・3〜4 第7回神宮スキー大会(小千谷)
      滑降に小林寅次郎優勝、2位長崎寅吉
第7回神宮大会こほれ話
・秩父・北白川両宮殿下をお迎えするため西脇本家では 御居間の手入、浴室便所の新築をした。
・当日早朝より沿道に小中学生一般の人達が出迎えした。 小千谷駅よソリを用意したが、宮様はスキーで歩いて会場にむかわれた。
・会場での宮様の接待には、県の指示により小千谷高女生 が当ったが、用具はすべて西脇本家より特製を持参、着 衣動作等きびしい指導であったという。
・会場廻り付添い役員は、昨夜未の降りやまぬ雪を踏みかためながら先導したが、下り坂では宮様が転んで不愉快な思いをされてはと、先にわざと転んだり、なかなか気苦労だったとのこと。
・ジャンプ台の飛距離標識は55mまであり、そんなに飛 べないと思っていたのに、早大の竜田選手あれよあれよ という間にはるかに超えて着地した。審判員あわててか け下り、59m50と判定したが、後でよく考えると6Omは 飛んだようだとヒソヒソ話
・開会式に宮様の御前で「スキー体操」を公開したが、指揮者の熊倉光治教諭は、「まちがうような失礼があっては教員は首」を覚悟して演技を行ったという。「スキー体操」は絶讃を浴び、高く評価された。


山本山シャンツェに押し寄せた数万の大観衆
2・9〜11 万国学生スキー大会(スイス・ウェンゲン)
      18キロに木越定彦優勝、清水麟一は4位に入賞
2・9〜11 第12回全日本選手権大会(大鰐)
      18km少年組に岡田信正優勝
昭 和 1 0 年 
 美濃部達吉が天皇機関説を説き、貴族院で攻撃され弁明したが、結局不敬罪で告発された。「青年学校令」が公布され、10月から全国に青年学校が開校された。 この年高田池の入に県営シャンツェが誕生したが、工事費は7000円であったという。また、文部省主催のスキー講習会が山本山会場で開催され、スキーハウスに合宿し参加50名という記録があり、第1回宮様殿下御台臨記念スキー大会が山本山で開催されたり、中里スキー場が開設されるなど、いろいろなことがあった。
1・19〜20 第8回全日本学生スキー選手権大会(小樽)
 男子15Km 野崎 彊(早大、高田中出)優勝。
2・9〜11 第13回全日本スキー選手権大会(札幌)
  この大会は、翌年ドイツでのオリンピックに派遣する選手の選考に重大な関係をもついわば予選でもあるので、準備は慎重を極めた。距離コースは60kmという日本のスキー史始まって以来の大耐久コースであった。4kmの第2関門通過は、1位優勝候補の坪川武光に続いて、2位に大夕張炭鉱から出場した岡崎作治という青年が入っている。どんなことになるだろうかと関心がもたれたが、10kmで1位のタイムを示した。彼は坪川が落ち出して2位にせり上ってきた上石を1分抜いている。15kmでもいぜんトップ、しかし22kmになると、ここで岡崎を抜いて1位にせり上ったのが、樺太泊居の青年、岡山忠雄という新人である。38kmでは岡崎がまたトップ、岡山が1分差で続き、3位の上石は岡山に4分おくれている。岡崎といい岡山といい、よくもこんなに強い青年が彗星のごとく現れたものだ。岡山は泊居で毎朝の牛乳配達にスキーをはいてトレーニングしているという。岡山は戦後新赤倉に移り住んで、妙高高原町議会議長となり、第9代の県連会長として尽力した
2・15    小千谷スキークラブ主催秩父宮台臨記念スキー大会(小千谷山本山)
3・10 妙高山麓国際スキー場設置決定
3・17             第1回苗場山10粁滑降スキー競技会が、新潟県主催苗場スキークラブ主管で開催された。 この大会は読売新聞社の後援で、昭和16年まで続いたが、昭和17年には新潟県体育団に移され、大戦のため翌18年の第9回を最後に中止された。
昭 和 1 1 年 
 常識はずれの豪雪にあけた年であった。くる日もくる日も雪が降り続き、裏日本の鉄路は寸断され山間の部落を孤立した。東京の空も灰色に塗りつぶされ、20cm30cmという大雪が度重なった。その雪の中で2・26事件が起った。陸軍青年将校ら1400余人、重臣及び朝日新聞社を襲撃、首都は恐怖と不安のどん底に突きおとされた。
2・6〜16 第4回冬季オリンピック(ガルミッシュ)
          団長広田戸七郎、選手岡山忠雄ら10名参加、伊黒正次ジャンプで7位、竜田峻次77mの最長を飛ぶが、右手を雪面にふれ転倒と判定される。
2・9〜12 第14回全日本選手権大会(小千谷)
      はじめてアルペン競技がとり入れられた。滑降コース全長2000m標高差 30Om、ゴール前1キロはまったくの平地で、赤倉の名スキーヤー次井晨は、得意の技術を発揮する場面もないまま2位。回転は山本山シャンツェの横の斜面で、全長 100m余12・3本の旗が並んでいるにすぎなかったが、急斜面でしまったザラメ雪は、相当の技術が要求された。テクニシャンの次井の優勝は順当で あった。
3・18  次回昭和15年の東京オリンピックの冬季競技会場選定委員会は、札幌を選定
7・31  IOC総会で、次期オリンピック開催地に東京を決定
昭 和 1 2 年 
 軍部と政党が対立して広田内閣は総辞職し、朝日新聞社渡欧機「神風」が、東京・ロンドン間15357kmを94時間17分56秒で飛ぶという明るいニュースもあったが、北京郊外蘆溝橋での一発の銃声は、遂に日華事変と、どろ沼の戦争への道をたどり始めた。 この年から全日本選手権は、ノルディックとアルペンを、はっきり区別しておこなうようになった。
1・17、
22〜24
第10回全日本学生スキー選手権大会(札幌)
 新種目新複合で野崎 彊初代チャンピオン。
2・11〜13    第15回全日本スキー選手権大会ノルディック(大館)15Km増田真一優勝。
2・20 第2回全国鉄道スキー競技会(小千谷山本山)
2・20〜21             第15回全日本スキー選手権大会アルペン(伊吹山)
 女子滑降1位に郷戸セツ子、2位鶴見敏子、5位川久保ミチ、6位山田和江と大量入賞。男子滑降も2位野崎彊、4位次井晨、8位藤巻文司で、次井晨は回転でも4位に入っている。
6・9     IOCのワルシャワ会議で、次期冬季オリンピックは札幌と決定したが、スキー競技はなしとのことであった 国際スキー連盟(FIS)は「有給スキー教師はアマチュアである」とし、IOCはこれをアマチュアと認めていない。ガルミッシュでは、両者の妥協が成立して無事開催したが、今回は両者が決してゆずろうとしない。そのためIOCは、FISが態度を改めない限り、冬季オリンピックからスキー種目を除外するという。スキーなしの冬季オリンピックでは意味がないと、稲田会長渡欧接渉中、オリンピック委員会は軍部の圧力に負け、返上を決定した。
10・1  弥彦スキークラブ創設(初代会長 花井 馨)
12・      赤倉観光ホテル竣工。ホテル前山ノ神スキー場オープン。日本で初めての客を運ぶソリ式ロープウェイが完成、ホテル客のみ利用させていたが、27年より一般にも解放した。
   
昭 和 1 3 年 
 中華民国維新政府という日本の傀儡政権が南京に誕生し、戦線は、徐州・武漢三鎮・広東と拡大されていった。国家総動員法が成立し、物資は統制され、木材・鉄・軽金属・皮・ゴム・ロウ・毛糸・木綿等一切が統制品で、スキー用具にはまわってこなくなった。 こんな時代でありながら、甲子園と後楽園に雪を運んでジャンプ大会が行われたり、後楽園外野スタンドに雪をはりつけて講習会が開かれたりした。
1・9 甲子園ジァンプ大会
     妙高より雪を運んでシャンツェを作った。
1・14、
21〜23 
第11回全日本学生スキー選手権大会(ニセコ・小樽)
野崎 彊新複合2連覇。
2・8〜13  第16回全日本スキー選手権大会(札幌)
2・18〜  第9回神宮スキー大会(野沢)
               神宮大会が全日本ときりはなして別個に行われたのは、昭和9年以来のことであったが、新複合に、4位小島弘平、7位若尾金之丞と次代を背負う少年が台頭してきた。
2・24〜27 世界選手権(FIS)ラハチ
        次井ら4名の選手が参加、次井は練習中右足を骨折、残念ながら棄権。
2・26  県スキー選手権大会、青年団スキー大会(津川)
2・27  後楽園ジァンプ大会、上越から330tの雪を運んだ。
7・14  日本オリンピック委員会、オリンピック返上を決定
昭 和 1 4 年 
 英・仏がドイツに対して宣戦を布告し、ノモンハンで日・ソ両軍が衝突した。物価統制令が実施され、国民の生活は苦しくなっていった。双葉山69連勝で終るという話題もあった。
 全日本スキー連盟主催の「全国スキー講習会」が、1月から3月まで、全国有名スキー場40ヵ所を網らして開催された。2〜3日間の講習で最後にバッジテストを行い、技術章(1級と2級の2種を授与したが、シーズン中の受講者 3611人中、1級 148名、2級 525名が合格した。
1・28〜29 後楽園選抜ジャンプ大会
     回転も実施、鶴見敏子女子優勝
2・10〜11 第17回全日本スキー選手権大会(札幌)
        小島弘平(高田中)が滑降に優勝したが、5位まで中学生が占め、さながら北海道と新潟の中学対抗であった
2・26 国民皆スキー行進日、中央会場霧ケ峯
 スキーなどというと、都会地ではいい身分の人々の遊びと誤解される。なにか勇ましい掛け声をかけて、当局のごきげんをとっておかないと、今にスキーが履けなくなる。そんな懸念から発案されたもので、国民精神総動員の趣旨にそってスキー大行進を行うというのである。中央会場霧ケ峯に参集した若人、3000人、厚生省のおえら方は国民精神の高揚を説き、戦雲の急を告げ皆スキーの意義を叫んだ。そして栗本体育官の号令一下、和田峠目ざして出発した。この放送は全国に中継され、全国各地のスキー場に集うスキーヤーも、栗本の号令でスキーをすすめた。
3・5    県スキー連盟主催第8回青年団スキー大会(湯沢布場スキー場)
12・21〜23 第1回指導員検定講習会
 11名の日本最初の公認指導員が誕生
昭 和 1 5 年 
 東条英機が陸相となり、日独伊三国同盟が成立し、紀元2600年式典が挙行された。また大政翼賛会か発会し、大戦の準備が着々と進んでいた。物資の統制はきびしくなり、スキー用具の入手もしだいに困難になっていった。
1・17〜21 第13回全日本学生スキー選手権大会(野沢)
 若尾金之丞が新複合に優勝。
2・4     米峰スキー団主催第6回県下飛躍選手権大会(刈羽安田スキー場)
2・9〜12 第18回全日本選手権大会兼第10回神宮スキー大会
   ノルデック(高田) 増田真一18キロ、36キロの2種目を制覇
   アルペン(妙高) 若尾金之丞新複合を制す。
 当時のコースはかなり安易なものだったようによくいわれるが、事実は決してそうでなかった。小樽毛無・野沢・赤倉・五色日光等の滑降は、距離3500〜3600メートル、標高差700〜800メートル、現在のような大がかりの土木工事は加えられておらず、不整地も多く、コースは狭く、むりな曲り角が多かった。ただ概して雪は軟かかった。その土地の雪質に応じたバーンをつくればよいと考えていた。
3・22〜24 指導員検定講習会(野沢温泉)
      次井 晨・藤巻文司、県初の指導員となる。
3・   旧三条スキークラブ創立(会長大塚寛治)
昭 和 1 6 年 
 12月8日未明の真珠湾攻撃によって、大東亜戦争、後に言う大平洋戦争の火ぶたが切られた。 岸記念体育館が完成し、全日本スキー連盟事務局は、小川勝次氏宅より移転し、財団法人全日本スキー連盟となる。(基金1万円、厚生省認可)
2・4〜9 第19回全日本選手権大会兼第11回神宮スキー大会 (札幌・小樽)    新複合に若尾金之丞優勝、2位笹川雄一郎
4・23    財団法人認可され「財団法人全日本スキー連盟」となる。
8・14 鶴見宣信氏逝去
10・1    天狗山岳会(三条)創設 会長箕浦三郎、山岳スキーを主として活躍
11・6〜10  第1回スキー指導管理者修練会
 神奈川県川崎市の津田山修練道場で、スキー指導員とスキー場管理者を集めて、厚生省の主催で行われた。「今後全国のスキー場管理者は、この修練会で修了証書を授与された者でなければ、その資格を与えないようにしたい」
12・   土樽スキー場開設
                 主として、鉄道の練習場となった。大会をやるコース等はないが、少雪の年でも雪に恵まれ、国鉄のブロック予選等数多く行われた。また世界選手権代表選手の合宿も行われ、後年、猪谷千春も数年在留し小学校へ通ったこともある。
昭 和 1 7 年 
 マニラ・シンガポール・ラングーンと戦火は拡大されて行ったが、ミッドウェーの敗戦を機に戦況はきびしさを増していった。スキー大会にも当然、戦時色が反映してきて、スキー国防・スキーによる体力増強など、さかんに叫ばれた。叫ばなければスキーを語ってはならない時世であった 全日本スキー選手権という言葉は、表向きにはほとんど使われなくなり、明治神宮国民錬成大会冬季スキー演練として行われた。種目も盛りだくさんになり、1チーム5人が同時にスタートして、全員がゴールしなければならない団体競争が、鉄道局・宮林局・逓信局の対抗、警防団・産業従業員の府県対抗と5種目あり、軍隊競走としては伝令競走(下士官と兵各1名による団体競走)、斥候競走(将校1下士1兵3計5名の団体競走で、途中将校を除く4名が1人5発ずつの射撃を行い、1発命中するごとに所要タイムから1分差し引く)なども入って来た。
2・6〜8 第12回神官・第20回全日本選手権大会(大鰐)
      15Km壮年組に増田真一優勝、滑降に笹川雄一郎優勝
2・22 新潟新聞、新潟市共催国防スキー錬成講習会(冬鳥越)
3・14 堀内文治郎将軍逝去
5・24       日本体育協会は解消して、大日本体育会(会長は東条英機首相)となり、全日本スキー連盟もなくなり、体育会の中のスキー部会に統合された。
昭 和 1 8 年 
  ガダルカナル撤退、山本五十六連合艦隊司令長官戦死と、 戦局はいよいよ深刻なものとなった。国内の物資は欠乏し、 食料衣料もとぼしい中、運動用具はもっともみじめであった  スキー選手は古い用具をしばったりからげたりして間に合 わせた。試合に敗れることとともに、用具の破損をおそれた  こんな事情のもと、ともかく、インカレ・全日本とも無事 行われ、そして戦前最後の大会となった。
1・15〜17       全国学徒スキー大会という名称で、インカレもインターハイもインターミドルも―緒にして開催された。
(小樽)大学の部大回転で笹川雄一郎優勝
2・4〜7       第13回神宮スキー大会国民錬成スキーは、厚生省の主催で、第21回全日本選手権を兼ねて開催(日光)笹川雄―郎滑降に優勝し、新複合を制覇
2・20〜21          東亜競技大会冬季大会スキー競技会(満州・通化市)日本と満州の対抗競技であるが、満州側の選手も全て日本人で、エキジビションの域は出なかったが、戦前最後の公式競技となった。
2・25 県・県産報共催第10回産業人スキー大会(小千谷ヒウ山スキー場)
4・  体育会内に「戦技スキー審議委員会」が設けられ、本格的に戦技スキーの研究と普及がはじめられた。 委員の顔ぶれも陸軍か実権を握り、他は厚生・文部の役人・時局便乗の学識経験者などで、14名中スキー人はわずか2名にすぎなかった。委員会はスキーの長さを規定した。当時の軍用1メートル85センチが最良であると陸軍は主張した。スキー人側は、せめてもう10センチ長くしてほしいこと、少数のジャンプ用の製造と使用について承認してもらいたいことを主張し、陸軍も若干折れてそれを許可したが、ディスタンス競技の従来のランナー・スキーの使用はまかりならぬときつい達しであった。
昭 和 1 9 年
 マリアナ沖海戦に敗れ、制海権は米軍の手に帰し、サイパン島が玉砕して、東京にB29が飛来した。神国日本は敗れることがないという信念にようやくひびが入り始めていた。 そんななかにも、やはりスキーは存在した。
1・6〜1l 戦技スキー兼壮丁スキー訓練指導養成中央講習会(菅平)
                     戦技スキーの講師養成が目的で、スキーの滑りなどに二の次。雪中幕営、雪中炊さん、救急法、夜間行進、そりの曳き方など主体であった。最後の日は四阿山(標高2330メートル)に登ったが、記録によると、午前3時出発、11時山頂着、8時間の登高であったという。三貫目の荷を背負い、ストックの他に竹槍まで持った250人の大パーティーが登ったのは史上空前のことであり今後もないであろう。
1・9    スキー教練操典、高田中学橋詰、佐藤教諭の研究て完成
   高田中では、独特の「スキー検定」を行っていた。これは8kgの砂袋を背負って8kmをスキーで、上級生は35分以内、下級生は40分以内に走破するということであった。
l・18〜19     深夜のスキー大行軍、高田市を中心とした山野24キロを踏破
2・27        第14回明治神宮スキー大会は、戦争の緊迫から、長岡市の男女小中学だけで行い、分列行進、スキー体操、雪上戦技訓練などでおわった。
10・26  松木嘉之七氏逝去
12・25  戦技スキー講習会〜スキーの国防化(関温泉)
昭 和 2 0 年 
 この年、果たして何人がスキーに乗ったであろうか。
 8月15日の玉音放送をもって戦争は終った。全国に灰燼・瓦礫の街を残し、多数の生命が失われた。もう半月早く平和がもどっていれば、広島・長崎・そして県内でも長岡が助かったのにと、悔んでも帰って来ない。
12・1  「全日本スキー連盟」復活
高田池の入シャンツェ
昭和11年の第14回全日本と神宮大会の開催を目指して、白旗山の稜線続きの池の入に、工事費 7000円で60mを目標に作られた。大きなやぐらと台、すごい急斜面で人々の目を見はらせた。ところが大会を半年後にした10月下旬、豪雨によって肩部が崩れ、 1000円の費用と2か月の日数を費やして大修理を行ったが、12月中旬再び崩れ、11年の大会を小千谷に譲らなければならなくなった。昭和15年の全日本兼神宮大会は、このシャンツェに大修理を加え、市内中等学校・青年団の奉仕作業で開催し、最長不倒距離57.5mの良い成績が出した。第2次大戦直後の混乱に、やぐらのボートが何者かによって抜き取られ、やぐらの用材(木材)は市内の小学校のタキギとして配給された。


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